2000.9b / Pulp Literature

2000.9.12 (Tue)

永井均『これがニーチェだ』(1998)

これがニーチェだ(97x160)

★★★
講談社現代新書 / 1998.5
ISBN 4-06-149401-5 【Amazon

ニーチェの哲学を独自に解釈した本。「道徳批判──諸空間への序章」、「ニーチェの誕生と、『悲劇の誕生』のソクラテス像」、「第一空間──ニヒリズムとその系譜学」、「第二空間──力への意志とパースペクティヴ主義」、「『反キリスト』のイエス像と、ニーチェの終焉」、「第三空間──永遠回帰=遊ぶ子供の聖なる肯定」の6章。

入門書かと思ったら微妙に違った。ニーチェの哲学は何の役にも立たないから良い、みたいなことを言っている。

以下、断片的なメモ。

敵が称揚する価値を否定してその逆を主張している限り、敵の空間の内部にいる。空間の内部で対立する価値を称揚するのではなく、その対立空間それ自体を否定し、自分の空間の内部に引き入れて位置づけてしまわなければ、完全な勝利をおさめることはできない。キリスト教道徳は、敵を自分の「罪と贖罪」の空間に引き入れて、強者を「罪人」に仕立て上げることによって、それに成功した。相手の固有の価値空間そのものを否定して、その空間それ自体を自分の価値空間の内部に引き込み位置づけ直すことに成功したのだ。(p.40-1)

この方法論は色々な局面で使えそう。

敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者はちがう。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深く入り込んで来て、私を理解という名の暴力でずたずたにしてしまう。同情されたとたん、私はそのことで殺されるのだ。(p.47)

おいおい、どんだけひねくれてるんだ……。

ぶどうに手の届かなかった狐が「あれは酸っぱいぶどうなのだと言ったとしても、それはまだ相手を引き下げているにすぎない。だが、その狐が「ぶどうを食べる生き方は正しくない」と言ったとしたら、彼はひとつの解釈を作り出したのである。このとき、狐の力への意志は解釈への意志に変換される。ニーチェのルサンチマン理論の本質はそこにある。弱さの、卑小さの本質は、解釈への意志にあるのだ。(p.74)

解釈への意志=負け惜しみってことかな。

満ち足りた者、自分の内部に欠如を感じない者、自分の外部に自分を否定する敵の存在を感じない者は、強い力をもっていてもそれを強く発揮する必要がなく、それゆえ自分の持つ力を意識しない。力を意識する者、力を発揮せざるをえない者は、力の弱い者である。力への意志は、満たされなければ満たされないほど、さらに強く発動し続ける。(p.137-8)

弱い犬ほどよく吠える。

ユダヤ民族は、世界史上初めて登場した、弱さを武器として闘うすべを心得た僧侶的民族である。パウロに始まる「キリスト教」は、拡大されたその複製品にすぎない。それは極度に抽象化されたユダヤ教なのである。(p.155)

この思想を曲解したのがナチスってわけか。

本書を読む限りでは、ニーチェって人は相当ひねくれているようだ。次はオーソドックスな入門書を読んでみよう。

2000.9.15 (Fri)

陳舜臣『インド三国志』(1984)

インド三国志(114x160)

★★★
講談社文庫 / 1998.1
ISBN 4-06-263689-1 【Amazon

17?18世紀のインドについて。ムガル帝国・マラータ族・東インド会社の抗争を描く。

エッセイだか小説だかよく分からないけれど(司馬遼太郎風?)、とにかく日本にとってマイナーな地域を取り上げただけでも快挙だろう。惜しむらくは、未完のまま終わっていることだ。

>>Author - 陳舜臣