2002.5b / Pulp Literature

2002.5.12 (Sun)

山本七平『「空気」の研究』(1977)

「空気」の研究(112x160)

★★★
文春文庫 / 1983.1
ISBN 4-16-730603-4 【Amazon
ISBN 4-16-334020-3 【Amazon】(単行本)

日本人は「空気」を意思決定の要とし、おかげで数々の不利益を被ってきた。今も続くこの奇妙な体質を、歴史上の出来事や外国との比較を交えて論考する。

(……)われわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(タブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれは通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。

こういうのを読むと、日本人でいることに途方もない疲労をおぼえてしまう。「空気」の支配は幼い頃からひしひしと感じていたし、大人になった現在でも圧倒的な壁として立ちふさがっている。「空気」によって恩恵を受けることもあれば、不利益を被ることもあった。総体としては窮屈な印象が強いものの、しかし上手く同調さえできれば、これほど居心地の良いシステムはない。責任回避の道具、および思考停止の口実としては優れたものがあって、今ではすっかり馴染んでいる。

本書は所々にある日本人論がユニークで、たとえば道徳について語った以下の文章が面白い。

「人間には知人・非知人の別がある。人が危機に遭ったとき、もしその人が知人ならあらゆる手段でこれを助ける。非知人なら、それが目に入っても、一切黙殺して、かかわりあいになるな」

日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、“口にしたということが不道徳行為”と見なされる。

また、キリスト教やユダヤ教といった西洋文化との対比も面白い。著者は一神教(モノティズム)の世界観についてこう述べている。

「絶対」といえる対象は一神だけだから、他の全ては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。この世界では、相対化されない対象の存在は、原則として許されない。

だからひとつの正論やスローガンを絶対視しない、と。

それに対して日本は……。

われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」から「正直ものがバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その“空気”で支配されてきた。そしてそれらの命題たとえば「正義は最後には勝つ」「正しいものはむわれる」といったものは絶対であり、この絶対性にだれも疑いをもたず、そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じつづけてきた。そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というものが理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである。

いやあ、どうなんでしょうか? さすがに勇み足だとは思うけど、大筋ではまあまあ当てはまるのかな。容赦のない分析を前に暗澹とした気分になる。

2002.5.15 (Wed)

ロバート・カプラン『ゼロの博物誌』(1999)

ゼロの博物誌(108x160)


The Nothing That is: A Natural History of Zero / Robert Kaplan
松浦俊輔 訳 / 河出書房新社 / 2002.4
ISBN 4-309-25157-9 【Amazon

ゼロにまつわる様々な話。

途中で投げ出してしまった。ギリシャ数学がインド数学に及ぼした影響とか、古代における数の表記法とか、色々興味深いことが書かれているけれど、文章に癖があって最後まで読めなかった。一般向けの啓蒙書は、ケレン味のない実用文で書くべきではなかろうか。

2002.5.17 (Fri)

アーヴィン・ウェルシュ『マラボゥストーク』(1995)

★★★★★
Marabou Stork Nightmares / Irvine Welsh
早川敦子 アンナ・ピンスキー 訳 / スリーエーネットワーク / 1997.9
ISBN 4-88319-101-X 【Amazon

植物状態で入院中の青年ロイは、妄想の世界でアフリカの大地に立っていた。彼は相棒と共に、腐肉を食らう凶鳥マラボゥストークを狩ろうとしている。しかし、現実世界で邪魔が入り、彼の冒険はしばしば中断されることに。深く潜るべく、意識の表層で自分の過去を回想する。

暴力は最高だ。家にいるのと全然違う。興奮も、喧噪も、体の奥底から湧き上ってくる感覚も、すべてが最高だ。カジュアルズの仲間といると、それが満たされる。(p.229)

うおおお、これは凄い。破壊力抜群の傑作だった。暴力とセックスに満ちたスコットランドの若者風俗を描くところは、前作『トレインスポッティング』に通じるものがあるけれど、本作はそこからさらに踏み込んだ、問題意識の高いシリアスな小説になっている。

ロイの語りは冷静で知性さえ窺わせるのに、内容ときたら下劣そのもの。回想パートではナイフで同級生を刺したり、女に性的な屈辱を味わわせたり、スラムでの荒廃した生活が明かされていく。貧困と暴力に囲まれて育った彼は、自分の力を誇示することに固執していた。その病的な欲求は留まることを知らず、就職してからもフーリガンとして暴れている。こんなロクデナシがなぜ植物状態でいるのか? また、なぜマラボゥストークの妄想に逃げ込んでいるのか? そもそもマラボゥストークとは何者なのか? その答えはかなり強烈で、全てが不可避的なカタストロフィに収束していく。

ロイは植物状態でありながらも聴覚だけは生きており、外部(見舞い客や看護婦など)の声がたびたび意識を浸食してくる。そして、その声が彼をマラボゥストークの妄想から引き剥がすことになる。現実と妄想、さらに回想を自在に行き来させる語り口は、いわゆる「意識の流れ」というやつだろう。『響きと怒り』では名前と事物がトリップの引き金になっていたけれど、本作は現実世界の声をきっかけにしているところが巧妙だ。語り手の精神状態をダイレクトに伝えるとともに、終盤で劇的な展開を演出している。

この小説の何とも言えない読後感は、語り手がマラボゥストークに向き合うからこそのものだ。一連の妄想には暗い現実が反映しており、全てが白日の下に晒される。そして、物事を理解して認識が変わるその一瞬に、とてつもない罠が仕掛けられている。ここで感じる恐怖はいったい何なのだろう。まるで水の中に限界まで潜っていざ面に出ようとしたところ、下からぐいっと足を引っ張られたような気分だ(『ジョジョ』第3部より)。