2002.8a / Pulp Literature

2002.8.2 (Fri)

中山元『フーコー入門』(1996)

フーコー入門(97x160)

★★★★
ちくま新書 / 1996.6
ISBN 4-480-05671-8 【Amazon

フランスの思想家ミシェル・フーコーについて。彼の思想を一貫したものとして捉え、その軌跡を追っている。「現在の診断(序)」、「人間学の<罠>」、「狂気の逆説」、「知の考古学の方法」、「真理への意志」、「生を与える権力」、「近代国家と司牧者権力」、「実存の美学」、「真理のゲーム(終わりに)」の9章。

フーコーはもともと精神科医を目指していたのだけど、前頭葉手術の件で心理学の科学性に疑問を抱き、思索を深めることになった。現在を知るには過去を知らなければならない。というわけで、制度の歴史を掘り起こし、善意の皮を被った権力を暴き出している。

これがかなり面白かった。良心的と思われていた制度が、見方によってまったく逆のものに変わってしまう。近代社会の閉塞感を見事に言い当てているので、現代人のニーズに合ってるんじゃないかと思う。

以下、断片的なメモ。

まずは狂気の逆説について。

精神医学の目的が、患者が社会に復帰できるようにすることだと考えると、患者が復帰する社会はどの程度に<健全>であり、どの程度に特殊的であるか。患者はどのように「正常」になれば、社会に復帰できると判断されるか。ここで精神医学の治療は、すぐに政治的な意味をおびるようになる。精神医学はある意味ではその社会における政治的な実践なのである。正常と異常の判定自体が、「異常」を排除し、社会的な秩序を確保するという実践と結びつくからである。(p.30)

ピネル(註: フランスの精神科医)が解放した患者は、突然正気に戻ったのではなく、社会的なパターンに従って行動することができるようになっただけである。(……)「ピネルにとって狂人の治療とは、道徳的に認められ、承認された社会的な型の中に、狂人を安定させること」である。

(……)

これは非常に逆説的な事態であった。狂者はある種の袋小路にはまり込んでいるのである。そもそも狂気は、主体が自己と社会から疎外されることによって発生するのであり、その治療が求められたはずだった。しかし狂気が治癒されるためには、実存を疎外するような道徳性に服しながら、実存としての自己を疎外する社会の中に、自己を疎外したままで復帰することを要求されるのである。これは狂気の治療にまつわる逆説である。(p.50-1)

哲学っていうのは、こういう発想の転換があって面白い。治療行為は善意のようで実は政治と結託している。

続いて有名なパノプティコン(一望監視装置)について。

重要なのは、この装置では、中央の監視塔に監視者が常駐している必要がないことである。監視される可能性があることで、監視される者の心の内側に、第二の監視者が生まれる。(……)道徳的な主体が、自己の欲望する主体を監視する(……)これは「権力を自動的なものとし、没個人化する」装置である。(p.145)

人間は巧みに調教されており、魂が身体の牢獄になっている。現代人に心の病が多いのも、このメカニズムが関係しているのだろう。特に日本は相互監視のお国柄だから。

近代福祉国家による生-権力について。

フーコーは近代社会は規律権力と生-権力が重層的に重なった社会であると考えていた。生-権力は、規律権力のように、個人を空間的に配置し、監視する権力ではなく、人間を集合として、すなわち住民として管理し、統治する権力である。この権力がターゲットとしたのは、住民の生と死であり、疾病、出生率、死亡率などだった。規律的な権力が人間の身体の「解剖政治学」だったとすると、この生の権力は「生の政治学(バイオ・ポリティクス)」と呼ばれる。(p.175)

全体主義国家は、一つのイデオロギーのもとで、国民に一定の規範から外部にでることを許さず、ピラミッド型の政治を行う。しかし近代福祉国家は、一定の範囲でさまざまな逸脱を許すことで、支配の効率と柔軟性を高めている。これは新しい種類の国家であり、この国家は権力を行使する際に、細部にわたる国民の管理を必要とする。(p.186)

生-権力とは生を与える権力のこと。国家の力とは国民の数であり、数が多ければそれだけ労働力と市場規模が大きくなる。国家が国民の健康を気にするのは、もっぱら国家自身のためだ。人間を人間として気遣っているのではなく、社会の部品として冷徹に管理している。

生-権力と司牧者の権力は、構造的にぴったり重なるという。

国家は国民の幸福のためにあると主張することで、国家の統治の合理性を確保しようとする近代の生-権力と、教会は信者の幸福のためにあると主張することで、教会と司祭制度の支配の合理性を確保しようとしたキリスト教的な権力は、同じ構造をそなえているのである。すべての国民を絶え間なく監視しようとする生-権力は、信徒の心の中まで覗きこむ司牧者の権力と、瓜二つにみえるのである。(p.194-5)

そのうちテレスクリーン(『1984年』)とか来そうで怖いわ。国民総背番号制や電子マネーなども危ない。

2002.8.5 (Mon)

アレクサンドル・デュマ・フィス『椿姫』(1848)

椿姫(111x160)

★★
La Dame Aux Camellas / Alexandre Durmas (fils)
新庄嘉章 訳 / 新潮文庫 / 1950.12
ISBN 4-10-200901-9 【Amazon

純情青年アルマン・デュヴァルが、高級娼婦マルグリット・ゴーティエに一目惚れする。マルグリットは老公爵の囲い者で、どうしようもない浪費家だった。彼女はアルマンの純愛に触れて改心するが……。

純愛ねえ。昔は強引な愛情表現がトレンドだったようだ。既存の人間関係に無理矢理割って入り、若さに任せて突っ走っていく。こんなに僕は愛してるんだ〜! という前のめりの想い。今だったらアルマンくんはストーカー呼ばわりされて警察のお世話になっているところだろう。一途な恋心は誰にも評価されず、むしろ偏執狂だと判断されるに違いない。現代人は純愛さえ貫けないわけで、時代の変化は恐ろしいと思った。

本作は自分勝手な男女が織りなすどうってことのないメロドラマ。売春婦も奇麗な心を持っていましただとか、社会的制約で破綻しましただとか、最後に彼女は病死しましただとか、昼メロのツボを押さえている。その稚拙さも含めて大時代的な風格はあるけれども、しかしまあ、今更読むような本でもないんじゃないかな。女の変貌はヤンキーが更正したみたいで白々しいし、2人の「愚かさ」は定型的で薄っぺらいし、「古い」という以外にセールスポイントが見当たらない。

あと、作中に『マノン・レスコー』【Amazon】を出しすぎ。確か3回くらい出てきた。ありていに言えば読者への目配せなんだけど、こういうのは1度言及すれば十分だと思う。さすがに3回はしつこい。

2002.8.6 (Tue)

保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』(1993)

★★★
講談社現代新書 / 1993.12
ISBN 4-06-149181-4 【Amazon

ソクラテスは宗教的存在だったと論じる本。「古代ギリシア絶頂期の思想状況」、「厳格な掟の神テミス」、「宗教から思想へ」の3章。

陰謀論めいた内容だけど、それなりに筋が通っているから侮れない。「別の新奇なダイモーンを祭っていた」とされるソクラテスは、ときどき何かに取り憑かれたような行動をとっていた。著者はそこに着目し、シャーマニズムと結びつけている。

まあ、こういう見方もあるんだなということで。ギリシアの社会状況を説明しているところは参考になる。