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- 27 : イヴォ・アンドリッチ『ボスニア物語』(1945)
- 31 : トンマーゾ・ランドルフィ『カフカの父親』
2002.8.27 (Tue)
▲イヴォ・アンドリッチ『ボスニア物語』(1945)
★★★
Travnicka Hronika / Ivo Andric
岡崎慶興 訳 / 恒文社 / 1972.7
ISBN 4-10-216251-8 【Amazon】
1806年、ナポレオンの要請によって、トルコのトラヴニクにフランス領事館が開設された。その後間もなく、オーストリアの領事館も開設。ナポレオンが没落する1814年までの、両者の活動を追っていく。
原題は「トラヴニク年代記」。不安定な情勢下にあるトラヴニクの様相を、会話文を極力排した叙事的な筆致で描いている。この小説は物語の面白さよりも、記録的な部分に力点を置いているので、ボスニアに思い入れがないと読むのがきついような気がする。オスマン=トルコ、フランス、オーストリアの3つ巴の勢力図に、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の入り組んだ住民構成。本作は外交官レベルの摩擦と、庶民レベルの動乱を上手く交えていて、ノーベル賞が好む政治的な著作としては価値が高いのだろうなと思う。
まあねえ。医師の改宗だとか、揺れ動く領事の心境だとか、東洋的な残酷さだとか、色々印象的な場面はあるのだけど、如何せん長すぎるんだよなあ。上下段みっちり詰まって380ページはおいそれとは読めないだろう。しかも、昔の本だから字がちっこいし。この小説の一番のネックは分量だと思う。
2002.8.31 (Sat)
▽トンマーゾ・ランドルフィ『カフカの父親』

★★★★
Il Babbo Di Kafka E Altri Racconti / Tommaso Landolfi
米川良夫 柱本元彦 和田忠彦 訳 / 国書刊行会 / 1996.4
ISBN 4-336-03591-1 【Amazon】
日本オリジナル編集の短編集。「マリーア・ジュゼッパ」、「手」、「無限大体系対話」、「狼男のおはなし」、「剣」、「泥棒」、「カフカの父親」、「『通俗歌唱法教本』より」、「ゴーゴリの妻」、「幽霊」、「マリーア・ジュゼッパのほんとうの話」、「ころころ」、「キス」、「日蝕」、「騒ぎ立てる言葉たち」の15編。
ボルヘス的な奇想を駆使した小品と、描写力にものを言わせた不条理系幻想譚が中心。内容もさることながら、文章のクオリティが高くて好感触だった。
以下、各短編について。
「マリーア・ジュゼッパ」(1930)
雇い主ジャーコモと女中マリーア・ジュゼッパの奇妙な生活。
そりゃ人間だったら誰しも自己認識と他者の評価にギャップがあるのだから、一人称の語りはみな信用できないと言えるだろう。しかしながら、ある種の作品はその信用できなさをクローズアップして売りにしているのであり、従って「信用できない語り手」というカテゴライズには一定の正当性があるのだ。問題は、本作みたいに売りにしてるんだかしてないんだか分からないボーダー上の作品である(別に問題じゃないか)。
ジャーコモは世間から見れば鬼畜なんだけど、自身は鬼畜だと微塵も思ってないようだし、そもそも話のとっかかりから世間と自意識のギャップを仄めかしている。こいつはくせーッ! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜーーーッ!! と聴衆の誰かが叫んでもおかしくないくらい酷い奴だった。★★★。
「手」(1935)
田舎暮らしの男が、納屋に潜むネズミを飼い犬に捕まえさせる。
腸を剥き出しにしたネズミの姿をみっちり描いていてすげーと思っていたら、その後の幻想小説っぽいオチもすげーと思った。唐突なようで唐突じゃないと感じるのは、トラウマを催しそうなグロ描写に説得力があったからか。★★★★。
「無限大体系対話」(1935)
ありもしない言葉で詩を書いた詩人の話。
ボルヘスっぽいタイトル、ボルヘスっぽい発想。作者しか知らない言語で書かれた詩は、果たして芸術作品たり得るのか? 語り手と評論家が討論する。
一般的に言って、芸術作品は必然的になんらかの慣習に従って創作されるもので、その慣習のなかではじめて判断可能となります。作品は、その構成要素を抜きにしてそれ自体で価値づけるころができないものです。神以外に、絶対的な作品は考えられませんし、作品という概念も相対的な概念です。作品は観念の階段を無限に昇ってゆきますが、つねに唯一の倫理的価値のなかに存在するのです。(p.56)
作品は人に読まれてなんぼという前提があるのかな。んで、言語の意味を決定付けるものが慣習や規則だから、そういう背景を持たないオレ言語では意味が確定しない、と。★★★★。
「狼男のおはなし」(1939)
狼男が夜空の月をとっつかまえる。
童話風の小品。ミミズだってトンボだってアメンボだってみんな生きている。★★★。
「剣」(1940)
遺産を掘り返していた男が、この世のものとは思えない切れ味抜群の剣を手に入れる。
この切れ味というのが半端じゃなくて、大理石や金属といったあらゆる物体を難なく切断している。イメージとしては、刃で触れて分子と分子を切り離しているような感じ。斬鉄剣も裸足で逃げるほどの神がかった威力を誇っている。
この短編は最初から最後まで描写、剣の魔術的な切れ味を示す描写が際立っている。とある生物を真っ二つにするラストなんか、倒錯した美しささえ感じられて思わずぞっとした。★★★★★。
「泥棒」(1940)
物置き部屋に潜伏している泥棒が、家主の独り言を聞いて心を打たれることになる。
ふーん、としか言いようがない。センチメンタルノベルのパロディか何かかね? ★★。
「カフカの父親」(1940)
カフカが人面蜘蛛に遭遇する。その顔は死んだ父親のものだった。
さすがカフカさん、ためらい無くぶち殺している。★★★。
「『通俗歌唱法教本』より」(1941)
声に関する架空の論文。正しく発せられた声には重さや固さがあるとか。
ボルヘスっぽい短編。あり得ない理論をいかにもっともらしくでっちあげるかが、この手の小説の肝なのだと思う。その観点からすると、本作はお世辞にも魅力があるとはいえない。なぜなら、ディレッタント的な知性が足りないからだ。★★。
「ゴーゴリの妻」(1944)
ニコライ・ゴーゴリの妻は、空気で膨らませる等身大のゴム人形だった。
ダッチワイフってこんな昔からあったのか(実用に耐えうる性器までついている)。ゴム人形相手でもその心を支配できず、精神的に不安定になってしまうのが恐ろしい。でも、膨らませるたびに姿形が変わるっていうのはマンネリ防止に良いかも。
「剣」同様、この短編も描写が光っている。妻の末路なんか、ゴム人形とは思えないほどの迫力だ。★★★★。
「幽霊」(1951)
泥棒が侵入した屋敷では、複数人が幽霊に扮して1人の男を脅かしてた。
部外者の立場から怪しげな人たちの怪しげな行動を観察する。そして、女の決然たる情念を垣間見る。★★★。
「マリーア・ジュゼッパのほんとうの話」(1952)
女中マリーア・ジュゼッパについて。
「マリーア・ジュゼッパ」で語られた話は嘘だったということで、ほんとうの話とやらを物語る。ジュゼッパは顔面偏差値は低いけれど、中身は聖女だった。そんな彼女は相変わらず理不尽な目に遭っている。★★★。
「ころころ」(1962)
殺人犯が事件の隠蔽を目論む。自殺と見せかけるには、拳銃を死体の右手と左手どっちに持たせる?
いつの時代も理屈先行のインテリというのは始末に負えない。とっとと隠蔽工作すればいいのに、観念がぐるぐる回って一向に話が進まずにいる。しかも、挙げ句の果てにはあんなマヌケなオチがつくとは……。即断即決、余計なことはしない。つくづく完全犯罪は難しいと思う。★★★。
「キス」(1964)
暗闇にキスされる男の話。
あり得ない存在の存在感が凄い。まさに描写力の賜物! である。奇抜なイメージがいともたやすく具象化されていて、やっぱり才能ある作家は一味違うんだなーと思った。描写だけでご飯3杯はいけそう。
苦しみの夜な夜なにかれが見たものは、ぞっとするほど不条理なものだった。最初は部屋いっぱいに巨大なかたまりが見えた。それは奇妙にも空虚だったが、周囲の闇より深い闇で、暗黒の宇宙の穴のような、いわば空虚の中の空虚だった。<女>は触手のような突起で全身を包み、魔法の風に揺れるように折れ曲がったり立ち上がったりしていた。そして突然、この反物質的なかたまり、空虚の泡は、極めて細く鋭いものに変化し、何千ものせせらぎに砕けると、まるで毛細血管のように辺り一面に広がり、かれ自身にも染みこむように侵入した。(p.216)
こうして引用してみると、イメージを喚起させる比喩が多いことに気づく。★★★★。
「日蝕」(1963)
床まで届く長い髪をした女が、美術批評家とドイツ人の前で裸になる。そこへ日蝕。★★★。
「騒ぎ立てる言葉たち」(1963)
男の口から意思を持った言葉たちが飛び出してきた。彼らは男にある要求を突きつける。
ただのナンセンスな小話かと思っていたら、『不思議の国のアリス』【Amazon】を彷彿とさせる言語学入った展開になったのでびっくりした。単語と意味の関係なんて普段考えないからねえ。★★★。