2004.7b / Pulp Literature

2004.7.11 (Sun)

アガサ・クリスティ『忘られぬ死』(1944)

★★★★
Sparkling Cyanide / Agatha Christie
中村能三 訳 / ハヤカワ文庫 / 1985.5
ISBN 4-15-070080-X 【Amazon

自殺と思われた女の死は、実は他殺かもしれなかった。元夫が動く。

不在のヒロインを巡る各人の思惑という見せ方も良いけれど、これは根本的に人物の性格づけと描写が飛び抜けて上手いのだと思う。野心家の政治家に献身的な妻、ノイローゼ気味の元夫に有能な秘書。そして、近所にいそうな困ったおばちゃん。属性だけ抜き出せばありがちに見えそうだけど、それぞれものの考えかたや振舞いなどがよく書き込まれていて、存在にやたら説得力がある。

やはり白眉はおばちゃんだ。ルシーラ・ドレイクという名のこのお方、『リトル・ドリット』のフローラばりに饒舌で、場の空気を読まずに話を続ける困ったちゃん。のみならず、詮索好きで、視野が狭くて、それでいて自分の観察眼を信頼しているトンデモキャラである。

ルシーラ・ドレイクは、何度もうなずいて、たるんだ二重あごをふるわせながら、この世のことはなんでもお見通しだといった様子で、眉をあげ、(p.126)

堰を切ったように、ルシーラはとりとめのない抗議のことばをまくしたてた。まるまるとした頬が震え、眼には涙があふれんばかりだった。(p.268)

これらの下りだけで、どんなおばちゃんか目に浮かぶようではないか。「たるんだ二重あご」や「まるまるとした頬」といった身体的特徴に、中年特有の大袈裟な行為が加味されることによって、ちょっとした下りながらも雄弁にそのキャラクターを物語ってしまう。本作を読んで、やはりクリスティにはイギリスの血が流れているのだなと思った。

ミステリネタについてはいつも通り叙述が巧妙。読み返してみると、ある人物の言動に別の意味が含まれるようになっていて驚く(ダブルミーニングってやつ)。こういうのがあるから、クリスティの小説は止められない。

2004.7.14 (Wed)

A・H・Z・カー『誰でもない男の裁判』(1950-)

誰でもない男の裁判

★★★★
A.H.Z. Carr
田中融二 他 訳 / 晶文社 / 2004.6
ISBN 4-7949-2742-8 【Amazon

日本オリジナル編集の短編集。「黒い子猫」、「虎よ! 虎よ!」、「誰でもない男の裁判」、「猫探し」>「市庁舎の殺人」、「ジメルマンのソース」、「ティモシー・マークルの選択」、「姓名判断殺人事件」の8編。

以下、各短編について。気に入った短編には末尾に星をつけた(8編中4編につけた)。

「黒い子猫」

牧師が娘の子猫を踏み潰してしまった。

教養小説っぽい話。それまで犯罪を観念的に捉えていたインテリのび太が、猫殺し騒動を経験することで認識を改める。序盤の猫の始末と、終盤のフロイト援用がコミカルで笑えた。

それにしても、ハンマーを用いた「慈悲の一撃」には参ったね。

「虎よ! 虎よ!」

麻薬の囮捜査として料亭経営の知人に接近した詩人。

これは「黒い子猫」にも関連することだけど、人の心に罪が潜んでいるとか、虎が巣くってるだとか、そういうのを大真面目に語られてもあまりそそられない。

「誰でもない男の裁判」

演説している無神論者を射殺した、身元不詳の男の裁判。

利害関係のない男を神の声に従って殺したということで、裁判の焦点は動機に絞られる。本当に神の指示なのか。本当に天罰なのか。大衆は騙されやすい、という信仰問題に関連した部分が面白かった。

「猫探し」

曲芸をするスーパーキャットが失踪したので探偵を雇って捜してもらう。

捜索のプロセスを楽しむというよりは、人のやさしさと猫の愛らしさに頬をほころばせるような話か。書き出しも良ければ、ラスト一行も良い。☆。

「市庁舎の殺人」

市に雇われて雨を降らしていた男が何者かに射殺された。

これは少し前に似たような事件があったな。だからというわけでもないけれど、殺害の動機はわりと納得できた。本作は伏線の使い方が絶妙で、推理のために用意されたとある表現が、ラストで余韻を残すための道具になるところに感心した。☆。

「ジメルマンのソース」

金を払わずに高級レストランを食べ歩く紳士の、風変わりな物語。

こういう人を食った話は、いかにも洋モノという感じがして良い。『イリワッカー』もこれぐらい話上手で人を食っていれば……。ラストは給仕の仕草がとてもいい味を出している。考えてみれば、本書収録作はどれも幕の引き方が上手いものばかりだ。☆。

「ティモシー・マークルの選択」

轢き逃げ事件を巡る少年の選択。

今後の人生を左右する究極の選択だけど、それが変に突飛でなく、等身大の枠内に収まっているところがリアルで感情移入できる。ハックフィンやホールデンだったら全てのしがらみを捨てて旅に出るだろう。つまり、ヒッピーの道か。☆。

「姓名判断殺人事件」

敬愛する上司に殺人の嫌疑がかかったので女性秘書がそれを晴らす。

ホントにこんなトリックが成立するのかよ、と思わせるところがいかにも昔の小説らしい。それにしても、地の文の一人称「あたし」はどうにかならなかったのか。というか、違和感をおぼえる方がおかしいのか。

2004.7.19 (Mon)

サマセット・モーム編『世界100物語(2) 奇妙なこぼれ話』(1939)

世界100物語〈2〉奇妙なこぼれ話

★★★
Tellers of Tales / W. Somerset Maugham
斉藤磯雄・他 訳 / 河出書房新社 / 1996.11
ISBN 4-309-70872-2 【Amazon

サマセット・モーム編集によるアンソロジー。全11編。

モーパッサンの「くびかざり」を読めたのが収穫だった。この短編は、19世紀庶民女性の鬱屈と苦労を脱力系のオチでまとめた傑作。『モーパッサン傑作選』に収録されていないのが不思議なほどの素晴らしい短編だった。

以下、各短編について。

ヴィリエ・ド・リラダン「オランプとアンリエット」

斉藤磯雄訳。清廉な姉妹を主人公に、罪悪と徳行を語った寓話風の短編。

修辞が大袈裟過ぎて読みづらいけれど、これは寓話の雰囲気を出すための手法だろうか。冒頭で善悪を「緯度の問題」(共同体によって違う)と提起し、それから妹の「堕落」を語っていく構成からして寓話っぽい。本作は突き放した視点で、細かい善悪の非普遍性を示している。赦しを体感するきっかけが男の持ってきた金貨というのが、ムラ社会特有の視野狭窄を感じさせてせつない(その共同体では、金貨をくれない男にうつつを抜かすのがとてつもない罪悪だった)。

トマス・ハーディ「三人の男」

上田勤訳。イギリス農村の羊飼いの小屋で男女が宴会していたところ、男が1人ずつ、計3人やってきた。

男たちは何者なのか? という興味で引っ張り、最後にその正体が明かされる話。奇妙な行動の種明かしが、ミステリ小説風に捻ってあって面白い。それと、二人の奇妙な関係には、コミック系犯罪小説のようなユーモアがあって楽しい。

ヘンリー・ジェイムズ「愉快な街角」

土井治訳。三十年ぶりにヨーロッパからアメリカに帰ってきた男の悩みと恐怖体験。

「あの時、ヨーロッパにいかなければ」という後悔がアイデンティティ問題を引き起こし、「あり得たかも知れない自分」という分身を作り上げてしまう。ただ、深刻にアイデンティティ問題を描いたのかといえばそうでもなくて、分身をネタにした奇妙な話、といった程度に止まっている。基本的に地の文ばかりなので読みづらくてうんざりするのだけど、恐怖体験する場面だけはそれが男の焦燥感をよく表現していたと思う。

アナトール・フランス「ユダヤの総督」

斉藤磯雄訳。姦通の罪でローマから追放された過去を持つ男と、元ユダヤ総督・ピラトの対話。

これは征服者と被征服者の価値観の相違、そしてローマとユダヤの価値観の相違を語ることで、共同体が連帯することの難しさを示したのだろうか。

フランツォース「青春」

中田美貴訳。社会的成功を収めた人物が旧友に若い頃の恋愛譚を語る。

祖国復興を目指す人望家の意外な側面という趣向から、ちょっとしたサプライズとけっこうな哀しみへ。

スティーヴンソン「マーカイム」

守屋陽一訳。男が骨董屋を殺す。

てっきり倒叙系犯罪小説と思っていたら、筋はあれよあれよと罪悪問題へ迷走していった。道徳の教科書に収録されそうな話である。

モーパッサン「くびかざり」

杉捷夫訳。美形人妻がダイヤの首飾りを借りてパーティーに出るも、それを無くしてしまう。

これは冒頭に書いた通りの傑作。きっちりした起承転結の構成に、それまでの経緯を利用したオチを備えた、短編小説のお手本のような話だった。序盤にあった庶民女性のプライド描写がジャブのように効いている。これは長編でしかもSFだけど、広瀬正の『マイナス・ゼロ』【Amazon】と似たような読後感を得た。

モーパッサン「遺産」

杉捷夫訳。莫大な遺産を相続するには、3年以内に子供ができないと駄目なのだけど、夫婦の間には一向に子供の宿る気配がない。種のない婿は義父と嫁に罵られる。

本作は、人間は状況によっていくらでも変わってしまうのだ、というのを活写したユーモラスな短編。前途有望な若者が結婚を機にしょぼくれてしまう様子が痛々しい。さらに、種馬として連れてこられた社交家の男も、この家庭と関わることで惨めな方向に変貌してしまうのだから恐ろしい。あまり大きな声では言えないが、今の皇室にもこんな感じのプレッシャーがあるのだろうか。

オクターヴ・ミルボー「ごくつぶし」

河盛好蔵訳。リタイアしたお爺さんが嫁から飯も与えられずに死ぬ。

「働かざる者食うべからず」を厳密に実践してみせた掌編。筒井康隆「定年食」(『メタモルフォセス群島』【Amazon】所収)を思い出させる(といっても、こちらは共食いの話)。「オランプとアンリエット」のようにこちらの倫理・道徳観を揺さぶってくるような話だった。

オスカー・ワイルド「幸福の王子」

阿部知二訳。「幸福の王子」像がつばめをこき使って貧しい人たちを助ける。

道徳の教科書に収録されそうな暖かい話と思わせて、実はとんでもないオチが待っているという一筋縄でいかない小説。「俺さまのことを讃えさせる」(意訳)とか言ってる神は無慈悲すぎると思った。

コナン・ドイル「ブルース=パーティントン設計書」

阿部知二訳。大英帝国の機密書類(潜水艦の設計書)が盗まれたのでホームズが捜索する。

いやあ、マイクロフトが熱い。奴はこんなに熱い男だったのか。ご多分に漏れずホームズものは全作読んでいるけれど、今ではほとんど内容を忘れているため、今回読んで愛国に燃えるマイクロフトが新鮮に感じられた。ミステリネタのほうもわりと良く出来ている。特に犯人を捕らえる手際が鮮やかで痛快だった(死体トリックも意外!)。

>>『世界100物語(3) 巧みな語り』