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2004.12.21 (Tue)
▲ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(2002)
★★★
If Nobody Speaks of Remarkable Things / Jon McGregor
真野泰 訳 / 新潮クレスト・ブックス / 2004.11
ISBN 4-10-590043-9 【Amazon】
2つのプロットが交互に展開する。(1) 1997年8月31日の、とあるイギリス住宅街の肖像。夕方に起こった「事件」に向けて、住人たちの様子が群像劇風に描かれる。(2) (1)の3年後。その住宅街に住んでいた「わたし」の妊娠劇が語られる。
息の長い詩的なセンテンスに、細密な視点が混じった技巧的な小説。会話文には鍵括弧がなく、地の文にセリフが埋め込まれることで、人物と風景に一体感が生じている。
年下の女の子の父親が、玄関口から彼女を呼んで、父親は彼女の名前を呼んで、もう中に入れ、濡れてるじゃないかと父親は言い、彼女はリボンの端から手を放し、父親のところまで走っていき、年上の女の子は走りつづけていて、目には何も入らない。(p.271)
実はこの後の雨の描写が白眉なのだけど、あまりに長いので引用は控えた。大気が不安定になってぽつりぽつり雨が降ってくる。それが上の引用まで。そこからどしゃ降りになって、だんだん収束していくところが圧巻だ。雨を背景にして、カメラが人々の動きを映し出す。場を共有してるからこその繋がりのある感覚、さらには時間と空間の連動する感覚が心地良い。
ニコルソン・ベイカーが誰も気にしない日用品に目を留めたように、この著者も誰も気にしない住宅街の無名の人たちに目を留める。いくつか名前のある人がいるとはいえ、ほとんどは匿名だ。名前が重視されないというのは、昨今の住宅街事情を反映しているのだろう。大抵の人にとっては、興味のない人間の名前なんてただの記号にすぎない。そこには意味が付与されてないし、たとえご近所でも把握しようとは思わない。キャラが匿名なのはそういう風潮を表現するための手法であり、実はその匿名性に寂寥をおぼえているというのが、この小説のスタンスなのだ。世界の中心で名前を叫ぶ、みたいな。本作は名前にまつわるやりとりが印象的で、消費社会・流動化社会で失ったものを強く意識させる。
ただ、「わたし」の妊娠パートはかなりきつかった。行きずりの男とセックスして、妊娠して、なのに男探しも中絶も視野に入れないで母親を困惑させる。「わたし」は自分のことを「オンナノコ」と表記しそうな不思議ちゃんで、このパートは飛ばし読みの誘惑にかられた。「淫乱」とか「売女」とか、そういう言葉とは対極にある存在だから余計たちが悪い。
2004.12.23 (Thu)
▽マイクル・コナリー『ラスト・コヨーテ』(1995)
★★★★
The Last Coyote / Michael Connelly
吉沢嘉通 訳 / 扶桑社 / 1996.6
ISBN 4-594-02000-3 【Amazon】
ISBN 4-594-02001-1 【Amazon】
ハリー・ボッシュシリーズ4作目。上司暴行の廉でLAPDを休職中のボッシュが、30年前の母親殺しの事件を追う。
相変わらずの上質な小説だった。ボッシュが自身のトラウマである、エルロイ的な迷宮入りの母親殺害事件に立ち向かう。30年前の事件なので捜査が困難に思えそうだけど、関係者が生存していたり、証拠品が保管されていたり、手がかりがけっこうあるので、実はそう大変でもない。お偉いさんが関与している可能性があるということで、ボッシュは単独で、違法手段を駆使して犯人に近づいていく。この一匹狼的な立場が、制約にも自由にもなっていて面白い。
凶器には犯人のものと思しき指紋がついていた。そのため、ボッシュは怪しい奴らの家に不法侵入してこっそり指紋を採取することもできた(*1)。ところが、持ち前の性格ゆえか、それをせず強引に怪しい奴らに当たっていく。そして、結果的に遠回りになって事態は大きくなってしまう。ボッシュはかなり不用意だけど、実はそれも著者の手のうち。このまま聞き込みを続けていくだけではだれるんじゃないか? と思った矢先に、まるで計算したかのような展開を見せるのだから素晴らしい。この著者はストーリーの進め方が達者だと思う。
ハリー・ボッシュの孤独というのは、過去に源泉のある彼特有のものだとしても、その中には人間の根元的な孤独に通じる普遍性も混じっている(同僚を完全に信用できないところとか)。それに振り回されながらも精神分析医に心を開き、事件解決に向かって突っ走っていくところが肝なわけだ。陰のあるキャラクターも、ユーモアがあるので嫌味にならない。
2004.12.29 (Wed)
▽レフ・トルストイ『イワン・イリッチの死』(1886)
★★★★
Смерть Ивана Ильича / Лев Н. Толстой
米川正夫 訳 / 岩波文庫 / 1973.1
ISBN 4-00-326193-3 【Amazon】
イワン・イリッチの発病から死まで。
不治の病に冒された人間の心理を克明に綴った小説。人は生まれたら最後、死の恐怖に怯えながら生きていかなければらない。死とは誰に対しても必ず訪れるのに、われわれは他人の死には驚くほど無頓着だ。他人の死に遭遇したとき、われわれは喪失を哀しむと同時に、我が身の無事を顧みて安堵感をおぼえる。生命とは孤独だ。たとえ、どんなに親しい間柄でも、目前に迫った死の恐怖を取り除いてはくれない。孤独と苦痛は、自分が一身に引き受けなければならないのである。そう考えると、宗教や薬物に頼るのも悪くないのかもしれない。十字架と注射針で、法悦境に旅立つのも悪くないのかもしれない。しらふで主人公のような悟りに達するなんて、凡庸な人間には無理のように思える。
と、本作はそういう鬱になる小説だった。心理描写が秀逸で、死にゆく人間の孤独をたっぷり堪能できる。新春の浮かれムードのひとときに読むのも一興だろう。