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2005.2.12 (Sat)
▲シオドア・スタージョン『不思議のひと触れ』(1938-)
★★★
A Touch of Strange / Theodore Sturgeon
大森望 編 / 河出書房新社 / 2003.12
ISBN 4-309-62182-1 【Amazon】
日本オリジナル編集の短編集。「高額保険」、「もうひとりのシーリア」、「影よ、影よ、影の国」、「裏庭の神様」、「不思議のひと触れ」、「ぶわん・ばっ!」、「タンディの物語」、「閉所愛好症」、「雷と薔薇」、「孤独の円盤」の10編。
以下、各短編について。
「高額保険」(1938)
面会人がやってきて男からそれまでの経緯を聞く。4ページほどの小品。状況と語りの乖離が鮮明になるラストがとても良い味出してた。まさかそんな話になるとは! ★★★★。
「もうひとりのシーリア」(1957)
男が、同じアパートの住人である女の部屋を覗き見する。解説にある、「スタージョン版『屋根裏の散歩者』」が言い得て妙。
そういえば、マイクル・コナリーの『ブラック・ハート』【Amazon】にこんなセリフがあった。
この世のだれも、自分でいっているとおりの人間じゃないんだ。ドアをしめ、鍵をかけて自分の部屋にいるときはな。そして、だれも他人のことはわからない。どんなに考えたところで……。(下 p.201)
部屋にまで侵入するような人種は、そういうのを暴きたいという欲求が強いのだろう。ご多分に漏れず、本作の主人公もそういう好奇心発揮して覗き見するのだけど……。いやー、サプライズの後の行動がとてつもなく空気読めていない反面、それ分かる分かると共感できたりもする。何というか、気になりだしたら最後の一線まで越えなきゃ気が済まないのだな。好奇心ってそんなものだろうって感じ。★★★。
「影よ、影よ、影の国」(1951)
男の子が継母に理不尽な仕打ちを受ける。具体的には、おもちゃ取り上げられて部屋に閉じこめられる。それで、男の子は影絵で遊ぶのだけど……。これは童話っぽい語り口で、内容もまあ童話で、童話っていうのは得てして怖いものなのだ。途中まで継母の圧力でストレスを溜めて溜めて、こう、一気に開放するような小説。★★★★。
「裏庭の神様」(1939)
妻に嘘をつくのが習慣になっている男が、自宅の裏庭で神様掘り起こす。嘘をつくといってもそんな奇矯なものでもなくて、わりと納得できる範囲のもの。
「あれに勝てるか? ひとつ嘘をつけば、女房は大騒ぎをはじめる。べつの嘘をつけば、すべてはまるくおさまる。勝てやしないぞ」(p.70-1)
世の殿方なら多かれ少なかれこういう経験はあるだろう。正直は美徳でも何でもない。家庭の平和を守るためには、ときに嘘も必要である。
本作は『ドラえもん』みたいだった。主人公はとある能力を得るのだけど、それによって制約ができて悩むところは、まるでのび太である。もっとも、のび太だったら足下をすくわれて酷い目にあって、ドラえもんに「しょうがないなー、のび太くんは」と言われて、円満にオチそうだけど。★★★。
「不思議のひと触れ」(1958)
人魚の出る場所で2人の男女が出会う。
どちらも人魚とは顔見知り。が、それなのに人魚の生態が変わっていて面白い。★★★。
「ぶわん・ばっ!」(1948)
バンドマンの過去語り。この語り手というのが、「しばいたろか」と思うほどの根性悪い奴。同じドラムに競争相手がいて、明らかにそいつのほうが実力が上なのに、語り手は相手に注目がいかないよう工作する。よくある話である。音楽ネタはグルーヴ感が出ていて良い。★★★★。
「タンディの物語」(1961)
「カナヴェラルのくしゃみ」、「縮れのできたゲッター」、「漂う存在」など、はじめにレシピが示されて、そこからレシピに沿った5歳の女の子の物語が綴られる。ガレージ裏を本格的に改造するなんてそりゃ両親は驚く。天才赤ん坊に驚愕する「のりまきせんべい」のような気分だろうな。★★★。
「閉所愛好症」(1956)
団欒してる家族のもとへ宇宙仕官候補生である弟が帰ってくる。その弟というのが外向的かつ自己中心的な男で、オタクっぽい内向的な兄とはまったく正反対の性質だったりする。それで、新しい下宿人の女の子がやってきたり、古い下宿人のマグルーダーさんがいい味出したりで、物語は予想もつかないほうへ転がる。この小説は、『海を失った男』に収録されてる短編のような、わりと本格的な考察が出てきて面白い。人類は地上を跳ねるノミだ! というセリフを思い出した。★★★。
「雷と薔薇」(1947)
舞台は核攻撃をたっぷり受けた後のニューヨーク。人口は激減し、今も人々は発狂し続けている。核発射装置のありかを知っている人たちがみんな死んだから、報復攻撃が出来ない。確かに主張は素晴らしいと思ったが、これだけの短い話で人の死とメッセージをダイレクトに繋げるのはちょっと……。戦後すぐの小説だから仕方がないか? ★★。
「孤独の円盤」(1953)
女のところに宇宙からミニサイズの円盤がきて、頭上でくるくる回ってバタンキューする事件があった。そのせいで女は当局から理不尽な尋問を受けるようなる。
さて、これだけは頭に入れておいてもらいたい。わたしには職務があります。わたしの職務、それはあなたが円盤からきかされた言葉を頑として明かそうとしない理由をみつけだすことです。(p.315)
その後、適当に圧力をかけていくわけだけど、このエピソード読むと、役割順応という言葉を嫌でも意識させられる。人は与えられた役目に従って、いくらでも残酷なことをやらかすことができるのだな。それで、スタージョンらしい暖かい展開見せたこの短編。これを最後に持ってくる編集方針は好ましいと思った。★★★。
2005.2.13 (Sun)
▲ヘンリク・イプセン『人形の家』(1879)
★★★
Et Dukkehjem / Henrik Ibsen
矢崎源九郎 訳 / 新潮文庫 / 1953.8
ISBN 4-10-209601-9 【Amazon】
弁護士を務める夫の療養費を集めるため、人形のように可愛がられている妻が不法な借金をする。そして、それがもとで騒動になる。
まずこの妻というのがとてつもなく自己中心的で面食らう。冒頭、もし夫が借金を返さないまま死んだら債権者は困るだろう、みたいに話が及ぶのだけど、それに対する妻の返答が凄い。
その人たち? そんな人のこと、かまやしないわ! よその人のことですもの。(p.8)
おいおい、借りた物は返さなければ駄目だろう。恐ろしいことに、この女には「義務」という概念が決定的に抜け落ちている。自分たちが幸せなら他人のことはどうでもいいとさえ思っている。
ではなぜこういう性格になったのかいえば、それは妻がきちんとした教育を受けてこなかったからだ。妻は父親から人形のように可愛がられており、だからこういう欠落が生じてしまう。
しかし、「義務」を知らなかった妻は、一連の騒動を体験することによって「自分自身への義務」に目覚める。自分に教育がないせいで、物事を正しく判断できないらしいことに気づく。ここだけピックアップすると、欠落を埋める成長物語として喜ばしいように思える。けれども、その後の言動がかなり極端で、結末まで読んでしまうとそういった気分も保留したくなる。解説によると、当時もこの結末は賛否両論だったらしい。私なんかは妻がとったこの行動は筋が通ってないと思うのだけど、イプセンは『幽霊』という作品で、そういった批判に反論しているようだ。
「自分自身への義務」のために、社会的に許されない非常識な行動を起こす。これを自己中心的だと思う反面、既成の概念を打ち破るというのはこういうことなんだろうな、と呆れにも似た感慨もある。ある意味で古典の醍醐味を味わったのだった。
2005.2.16 (Wed)
▲デイヴィッド・アーモンド『火を喰う者たち』(2003)
★★★
The Fire Eaters / David Almond
金原端人 訳 / 河出書房新社 / 2005.1
ISBN 4-309-20427-9 【Amazon】
1962年のイギリスの炭坑町。エリート中学に進学の少年と、町に流れ着いた大道芸人が偶然の出会いを果たす。しばらくしてキューバ危機が起こる。
この大道芸人というのが少年の父親と旧知で、何と先の戦争では一緒だったという。しかし、今ではその時の記憶を無くしており、『道』のザンパノばりに大道芸で生計を立てている。男が披露する芸の内容は、ホントにこんなこと出来るのかよ、と思うくらい過激。突起物で自分の両頬を串刺しにしたり、火のついた棒を大口を開けて飲み込んだりするのだから凄い。これには電撃ネットワークもビックリである。
そんな大道芸人が何をしでかしてくれるのか、というのが興味の焦点になりつつ、物語は少年の学校生活が中心になる。友人とのつき合いや暴力教師との対立などが前面になり、その間、大道芸人は背景でちらと影を見せる程度にとどまる。
この学校生活というのが適度に波乱があって面白いので、それはそれで別に良いのだけど、期待の終盤というのがいまいちはまらず。大道芸人の物珍しいビジュアルが先行しているといった感じであまりぴんとこなかった。そもそも、作品を貫く「祈り」や「奇跡」というテーマに乗れなくて、その不思議な雰囲気を堪能できなかったというのもある。
2005.2.17 (Thu)
▼馳星周『長恨歌』(2004)
★★
角川書店 / 2004.11
ISBN 4-04-873576-4 【Amazon】
『不夜城』【Amazon】、『鎮魂歌』【Amazon】に続くシリーズ完結編。歌舞伎町で中国人マフィアの頭目が2人組の男に暗殺された。日本国籍を持つ中国人が犯人を追うはめになり、その過程で情報屋の劉健一と接触する。
あのころは知恵があれば大抵のことができた。今は金がなければなにもはじまらない。(p.15)
劉健一といえば、とんでもない犠牲を払って危機から生き延びたという重い過去を背負っており、その業の深さは前作『鎮魂歌』で遺憾なく表現された。詳しいことは省くとして、本作での彼のポジションは概ね前作と同様である。他人というフィルターを通すことで、彼の持つ底なしの闇を浮かび上がらせる趣向になっている。本作の語り手は劉健一のような過去を持っており、今もそのことを後悔している。そんな男が健一と関わることで、どのような化学反応が生じるのか。似たもの同士の運命の帰結が、この小説の見所になっている。
でまあ、これが劉健一のキャラのみで支えたような小説であまり面白くなかった。前半は強迫観念にかられた語り手が、事あるごとに「幾重にも糊塗された経歴」というフレーズを連呼して鬱陶しかったし、後半は後半で真相に辿り着く手段がけっこう無理しててきつい。極度に煩雑さを削ぎ落とした、流れるようなプロセス作りが眼目にあったとしても、これはちょっとあり得ないだろという部分もあって、都市小説ならではの実体感が削がれていたように思った。それと、マンネリズムを逆手に取ったプロットは良かったものの、女の造詣がとってつけたような安っぽい「駒」になっているのが気になる(だから、注目のラストは悪い意味でマンネリを感じさせる)。シリーズ完結編の本作は、昔日のような深みのある小説ではなく、良くも悪くも低燃費な小説になっていた。
2005.2.19 (Sat)
▲富野由悠季『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン』(1988)
★★★
角川文庫 / 1988.2
ISBN 4-04-410109-4 【Amazon】
シャア総帥の地球寒冷化大作戦を、アムロたちロンド・ベル隊が阻止する。
小説版『逆襲のシャア』には二種類あって、こちら『ベルトーチカ・チルドレン』は劇場版【Amazon/IMDb】の設定には即していない(ただし、ストーリーの流れはほとんど一緒)。企画段階でボツになった設定を元に、一つの作品として再構成したものらしい。人物名、MS名が違うことも去ることながら、アムロの恋人が『Z』のベルトーチカで、さらに彼女が妊娠しているというのが大きな相違点になっている。そんなアナザーストーリーを出版した事情はあとがきに詳しいが、まあこれは要するに「大人の事情」というやつだ。従って、本書を手に取るような層は、そういう「違い」を楽しむような人たちが大勢を占めていると推測される。
周知の通り、この『逆襲のシャア』という作品は、人類の可能性を説く富野由悠季が、愚民どもを見限った宮崎駿を批判するという内容である。すなわち、アムロ富野が、シャア宮崎の無謀な作戦を阻止するという話だ。
シャアが地球にアクシズ(隕石要塞)を落とす動機は概ね以下の通り。
- アースノイドによるスペースノイド支配(と差別)を止めさせたい。具体的には、地球に居続ける人々の粛正をしたい。
- 地球の汚染を食い止めたい。具体的には、アクシズを落として人類が住めないよう地球を寒冷化させたい(しばらく地球には休んでもらう)。
- 永遠のライバルであるアムロと決着をつけたい。それも正々堂々と。
特に(2)などは、宮崎のエコロジー思想をより先鋭化させたものと言えるだろう。その他、宮崎には愚民どもを見下すイメージがあるし(失礼!)、アニメ映画界では富野との二枚看板だったような気がするし、イメージカラーは「赤」だし(*1)(シャアも赤い)、それに何と言っても彼はロリコンだと思われている(シャアもロリコンだと思われている)。ロリコンに、エコロジーに、レッドカラーに、富野のライバルと来たら、これはもう宮崎駿しか思い浮かばない。日本アニメ界のドン・宮崎。日本映画界の至宝・ミヤザキ。世界の名監督・MIYAZAKI。
さて、そんなシャア宮崎はアムロとの直接対決で以下のようなセリフを吐く。
「……人間のエゴの全てを呑みこめるほど、地球は巨大ではない!」(p.153)
それに対するアムロの返事はこうだ。
「人類の知恵は、そんなものだって、乗り越えられる!」(p.153)
このアムロの理想主義とも言えるセリフは、『ガンダム』シリーズを通して人類の可能性を描いてきた富野を嫌でも思い起こさせる。世界に人の心の光を見せ続けてきてくれた富野を思い起こさせる。
人類に希望を託した富野。人類に絶望した宮崎。この作品で富野由悠季は、インテリ宮崎をトチ狂った(それでいてピュアな)革命家に仕立て上げ、どかーんと批判をぶちかましたのだ。人類もまだまだ捨てたもんじゃない、と!
おお、永遠のライバル富野と宮崎。戦後日本のアニメ産業をリードしてきた二人の寵児。彼らの血沸き肉躍る戦いは、日本映画界の伝説として、後世に語り継がれていくことだろう。『逆襲のシャア』は、まさに日本映画史に残る記念碑的な作品となった。
……正直、ちょっと無茶すぎた。