2005.5c / Pulp Literature

2005.5.21 (Sat)

塩野七生『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後』(1996)

ローマ人の物語〈11〉ユリウス・カエサル―ルビコン以後(上)

★★★
新潮文庫 / 2004.9
ISBN 4-10-118161-6 【Amazon
ISBN 4-10-118162-4 【Amazon
ISBN 4-10-118163-2 【Amazon

『ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前』の続編にして、カエサル一代記の後編。ポンペイウスの撃破からカエサルの暗殺を経て、プトレマイオス朝エジプトの滅亡(紀元前30年)まで。

再読。文章はいつものようにレトリック面が厳しい。とりわけ前作と本作で目立ったのが、女としての感性をフル活用した人間洞察だろう。

たとえば、

女とは、理によったのではなく、自分の女としての魅力によったと信じるほうを好む人種なのである。

とか、

猫は可愛がってくれる人間を鋭くも見抜くが、女も猫と同じである。なびきそうな男は、視線を交わした瞬間に見抜く。

とか、そういう無防備な表現が平気で出てくるのだからのけぞる。前々から思っていたのだけど、この著者はシステムの分析ではそれなりの見解を示すのに、人間観察になると途端に説得力を失うのだから不思議だ。

さて、本作の見所は、言うまでもなくギリシャで行われたカエサルとポンペイウスの決戦だ。ドゥラキムの戦闘で手痛い打撃を受けた後、カエサルはファルサルスの平原までポンペイウスをおびき出す。そして、兵数が圧倒的に劣っているにもかかわらず、新戦術を編み出してポンペイウス軍を打ち負かす。ポンペイスの採った戦術は、アレクサンダー大王から始まって、ハンニバル、スキピオを経て確立した騎兵による回り込み作戦。ここ最近のローマ軍の常勝パターンなのだけど、それをカエサルは寡兵でもって封じ込めてしまうのだから凄い。本作ではその辺の妙味を図解入りで詳しく説明している。

次に面白いのが、カエサルが死んだ後の政局の移り変わりである。暗殺後、カエサル派の人たちが遺言状を開けてみたらびっくり。後継者に指名されていたのが、何と18歳のオクタヴィアヌスだった。それで、何のバックグラウンドも持たない彼が、アントニウス・その他の勢力を押しのけて、権力を手中に収めるのだから驚く。情勢の変化を利用してアントニウス、レピドゥスとの三頭政治に持ち込み、最終的には天下を獲ってしまうのだから驚く。もちろん、まだ若いうちからオクタヴィアヌスの資質を見抜いた、カエサルの先見の明にも驚く。

とまあ、何だかんだ言いながらもけっこう楽しんで読んだのだった。このシリーズは、文章の鬱陶しさを史実の面白さで上手く相殺しているような気がする。今後、叙述と史実の微妙なバランスが崩れなければ良いのだけど……。

>>Author - 塩野七生

2005.5.22 (Sun)

マーガレット・アトウッド『食べられる女』(1969)

食べられる女

★★★
The Edible Woman / Margaret Atwood
大浦暁生 訳 / 新潮社 / 1996.2
ISBN 4-10-522502-2 【Amazon

大学を出たばかりのOLが、若手弁護士との婚約を機に壊れる。肉や卵が食べられなくなったり、ヒステリーを起こして飲み会から逃亡したり。女にとって結婚とは何か? を問うた、著者の小説デビュー作。

タイトルの「食べられる女」とはもちろん比喩であり、別にカニバリズムがテーマというわけではない。男に食べられる女、すなわち男に搾取される女を描いた話である。

60年代は、女性としての役割と人間としてのアイデンティティが対立する時代だったようだ。そんな世相を反映した本作は、既成の結婚制度に順応できない女の苦悩を追っている。婚約を機に肉や卵が食べられなくなるのは、主人公が一方的に「食べられる」存在に変貌したことを象徴しているのだろう。また、物語中盤からエキセントリックな青年に逃避するのは、彼の俗事を超越した非現実感に惹かれたからなのだろう。主人公が属する現実は、教育ある女性にとって、お世辞にも恵まれた環境であるとは言えない。職場では男性が上の階に集まって女性を踏みつけにしているし、プライベートでは保守的な婚約者が彼女に添え物的な役割を要求している(それも無自覚に)。

この小説の上手いところは、主人公の悩みを相対化する存在として、急進的なフェミニスト(女性)を配置しているところだ。彼女は主人公のルームメイトなのだが、思考がもの凄くぶっ飛んでいる。子供を産むことで女性の奥深い本能を満たす、などとうそぶき、優れた遺伝子を持つ男性を見つけてそれを利用しようとするのだ。結婚する気は毛頭なく、未婚の母として子供を養育しようという試み。で、彼女はそれを実行に移して妊娠、種馬男性との間に一悶着が起きる。彼女と男性の関係は、主人公と婚約者との関係とは決定的に違い、女性が男性を捕食する立場にある。彼女は男性優位社会の歪んだ鏡像として、物語の中でコミカルな役割を与えられている。そして、彼女のようなキャラが存在することによって、捕食の関係が男性から女性への一方通行でないことが明らかにされる。つまり、弱者と強者の普遍的な人間関係にまで、物語の視野を広げる結果となっている。

本作は他に、現実(=食べること)からドロップアウトした青年を登場させたり、女性のアイデンティティ問題を男性に代弁させたり、構造がかなりクレバー。フェミニズムな主張以前に、考え抜かれた物語作法に感心した。

2005.5.24 (Tue)

サキ『サキ傑作選』(1999)

サキ傑作選

★★★★
大津栄一郎 訳 / ハルキ文庫 / 1999.3
ISBN 4-89456-508-0 【Amazon

短編集。「開けたままの窓」、「お話の名人」、「がらくた部屋」、「祝祭式次第」、「出て来なかった州名」、「トード・ウォーターの不和――西部イングランドの叙事詩」、「ネズミ」、「トバーモリ」、「憤怒王ハーマン――号泣物語」、「不安療法」、「スレドニ・ヴァシュター」、「気分の問題」、「盲点」、「夕闇」、「復讐の日」、「賭け」、「クローヴィス、親の責任を論じる」、「平和的なおもちゃ」、「ルイ」、「贖罪」、「威嚇」、「ショック戦術」、「西部戦線の鳥類」、「地獄の議会」、「猫にささげる賛歌」の25編。

ユーモアとウィットに優れた上質の短編集。分量はどれも7〜8ページと短く、ラスト一行のパンチが効いている。

以下、各短編について。

「開けたままの窓」"The Open Window"

神経の保養のために田舎のとある一家を訪ねた男。彼が15歳の少女から、彼女の伯母にまつわる奇妙な話を聞かされる。これはラスト一行とその直前の少女のセリフが、相乗的に作用していて笑える。★★★。

「お話の名人」"The Story-Teller"

電車の中で青年が、質問癖のある子供たちにお話を聞かせる。付き沿いの伯母さんのお話があまりにつまらないので、偶然乗り合わせた青年が手本を見せるという次第。子供たちの鬱陶しい質問責めを、青年がその都度持ち前の機知で切り返すところが見所。★★★。

「がらくた部屋」"The Lumber-Room"

腕白少年が伯母さんの目をかいくぐって禁断のがらくた部屋に侵入する。この短編が素晴らしいと思うのは、部屋の中で想像の翼を働かせるエピソードが、いたずらを挟んでまた最後に立ち表れるところ。沈黙する伯母との対比がたまらなく良い。★★★★。

「祝祭式次第」"The Gala Programme"

時は帝政ローマ時代。帝国円形劇場にて、皇帝の誕生日を祝う式典が催されようとしていた。戦車レースや猛獣ファイトが予定されていたが、何でも婦人参政権論者が妨害を目論んでいるという。果たして式典は無事行われるのだろうか? ……という話。オチがブラックで滅茶苦茶面白い。やはりこういうネタは悪意が重要なのだな。衝撃のラストなんか嬉々として描いてる姿が目に浮かぶ。★★★★★。

「出て来なかった州名」"The Lost Sanjak"

死刑囚が教誨師に驚くべき過去を告白する。基本的には運が悪い男のホラー風味の話だが、イギリス人のスポーツ好きを踏まえたユーモアなんかも入っている。★★★。

「トード・ウォーターの不和――西部イングランドの叙事詩」"The Blood-Feud of Toad-Water"

世間から隔絶された高地地帯に居を構える2つの家族。両者はちょっとしたきっかけから仲が険悪になった。関係が壊れるのは簡単だが、いったん習慣化してしまうと修復は難しい。だらだらと年月は流れていく。本作はその辺の虚しさを上手く表現している。★★★★。

「ネズミ」"The Mouse"

列車の中。ネズミが服の中に入ったということで、それを追い出すべく男が半裸になる。同席した女性は眠っていたが、この騒ぎで目を覚ましてしまった。半裸の男は羞恥心に苛まれながらも女と会話する。これはもうオチでやられてしまった。この著者は人が悪いな〜、と。狼狽する男の滑稽さが良い。★★★★★。

「トバーモリ」"Tobermory"

博士が猫に言葉を教えることに成功する。そして、その猫はパーティの席上で参加者たちの陰口を暴露してしまう。こりゃまずい、ということで参加者たちは責任をもって猫を始末するよう博士に詰め寄る。再読。初読時のコメントは『世界100物語(3) 巧みな語り』の項を参照。知能のある動物を殺すのは残酷だ、というのはしばしば捕鯨禁止運動の口実に使われるけれど、しかしまあ鯨は喋らないから。★★★★。

「憤怒王ハーマン――号泣物語」"Hermann the Irascible - A Story of the Great Weep"

近未来小説。婦人参政権運動が猖獗を極めたので、イギリス王ハーマンが「婦人参政義務法」を制定する。参政権を認める代わりに、投票を怠った場合は罰則を科するという法律だ。婦人参政権論者に関しては、「祝祭式次第」でもネガティブな形で扱われていた。この著者はよほど嫌いだったのだろうなあ、と思ってついつい笑ってしまう。選挙の数を増やし、そのうえ女性だけ投票を義務化するなんてもの凄い悪意だ。★★★★。

「不安療法」"The Unrest-Cure"

通りすがりの男が神父の家に行って不安療法をかます。その内容は、主教が辺り一帯のユダヤ人を皆殺しにする、という法螺を吹くことだった。どうもいまいち。通りすがりの人がお節介を焼くところに可笑しみがあるのかね? ★★。

「スレドニ・ヴァシュター」"Sredni Vashtar"

余命幾ばくもない10歳の少年が、小道具小屋に動物を飼う。しかし、意地悪な後見人のミセスに動物を取り上げられてしまう。そこで取った少年の秘策とは……。怖い系の話。ミセスの力無き者に対する圧力も怖いし、少年の現実逃避も怖い。★★★。

「気分の問題」"A Matter of Sentiment"

ダービー前夜にパーティが開かれる。主催者の夫人は競馬に反対するお堅い人物だったが……。どうもいまいち。個人的体験がきっかけでトリヴィアルな知識を持ってることに、作中人物同様うめき声をあげる小説なのか? ★★。

「盲点」"The Blind Spot"

殺人の嫌疑がかけられたが、動機がないとして起訴を免れたコック。そんな彼の罪を立証する手紙が出てきた。これで正義を遂行できるかと思いきや……。溜めて溜めて遂にやってくるラスト一行の衝撃。★★★。

「夕闇」"Dusk"

夕暮れは敗北者たちの時間。ということで、ベンチに佇んでいた主人公に青年が苦労話を披露する。何でも、彼は自分が投宿しているホテルの場所が分からなくて困っているという。無一文でホテルを後にしたので、今夜は野宿かもしれない。果たして青年の言ってることは本当か嘘か? いやー、これはラスト一行を読んで吹き出してしまった。とぼけたセリフがとても可笑しいし、クールに決めたはずの主人公のうっかりぶりが微笑ましい。★★★★。

「復讐の日」"The Feast of Nemesis"

ミセスたちが他人に公然と復讐できる祝日の制定を夢想する。オチは衝撃的というよりは、「山田くん、座布団一枚」と叫びたくなるような感じ。大喜利で使えそうなくらい気が利いている。これがイギリス流のユーモアなのだな。★★★。

「賭け」"The Stake"

賭け好きの息子の放蕩ぶりを嘆くミセス。主人公はそんな彼女の家で昼食をご馳走になる。この家のコックは最高の腕なのだ。ところが、期待に反して料理はもの凄くまずかった。一体なぜだろう? という話。コックを巡るからくりは意外だったが、その後の捻りが物足りなかった。★★★。

「クローヴィス、親の責任を論じる」"Clovis on Parental Responsibilities"

「不安療法」と「復讐の日」で活躍したあの男が、婦人と子育てについて話をする。男の意地の悪さが遺憾なく発揮された好編。子育てに一家言ある婦人を巧みな弁舌でやり込めてる。★★★。

「平和的なおもちゃ」"The Toys of Peace"

おもちゃの影響は大きくて、戦争ものの模型ばかりで遊んでるから男の子は攻撃的な性格になる。と、そういった内容のコラムを読んだ大人が、子供たちに平和的な模型を与える。平和的な偉人や建物の模型では、とてもじゃあないが遊びようがない。それでも、大人が必死に遊び方を説明しているのに苦笑してしまった。★★★。

「ルイ」"Louis"

イースターをウィーンで過ごしたい夫だったが、妻が犬の世話を盾に要求を拒む。そこで、夫は事故に見せかけて犬を始末することに。そしたら、驚くべき事実が! という話。その事実を逆手にとった仕返しが痛快だった。なお、どさくさに紛れて婦人参政権論者への素敵な言及もある。★★★。

「贖罪」"The Penance"

男が鶏殺しの容疑で子供たちの猫を殺す。しかし、犯人は猫ではなかった。憤った子供たちは、男の赤ん坊を拉致する。大人世界のルールがまったく通用しない、子供ならではのぶっ飛んだ理屈が恐ろしい。それにしても、男は偉いね。普通なら顔面が歪むくらいぶちのめすところなのに、ちゃんと約束を果たすのだから。★★★。

「威嚇」"The Threat"

婦人参政権運動家が金を集めて首相を威嚇する。どうもこれは当時のイギリスの国情を理解してないとオチの意味が分からないようだ。訳者も困惑している。よって判定不能。

「ショック戦術」"Shock Tactics"

「不安療法」、「復讐の日」、「クローヴィス、親の責任を論じる」で活躍したあの男が登場。友人が自分宛の手紙を母親に開封されて困っていたので、機知に富んだ計略で助ける。方法も面白いけれど、もっと面白いのがその後のオチ。ラスト一行に背筋が凍ったのだった。この男、悪魔だ。★★★★。

「西部戦線の鳥類」"Birds on the Western Front"

戦場での自然観察。鳥類同士が争ってるその上で戦闘機がドッグファイトしている。そんな感じの印象に残る風景描写がいくつかある。著者が前線で戦死したことを考えると色々思うことがある。★★★。

「地獄の議会」"The Infernal Parliament"

新種の病気で死んだ男が地獄で議会を見物する。アルフレッド・ベスターの「地獄は永遠に」(『願い星、叶い星』所収)みたいのを想像していたら全然違った。ある人物(後にノーベル文学賞を受賞)を痛烈に揶揄した時事ネタだった。スペリングで遊んでいる。★★。

「猫にささげる賛歌」"The Achievenment of the Cat"

タイトル通り、猫を讃えた掌編だった。猫は人間社会に適応した勝利者。平穏に暮らしながら殺戮本能を駆使できる特権的地位にいる。★★★。

2005.5.25 (Wed)

ルース・レンデル『女を脅した男』(1998)

★★★★
酒匂真理子・他 訳 / 光文社文庫 / 1998.10
ISBN 4-334-76104-6 【Amazon

日本独自のアンソロジー。「女ともだち」、「女を脅した男」、「父の日」、「時計は苛む」、「雑草」、「愛の神」、「カーテンが降りて」、「ウェクスフォードの休日」、「藁をもつかむ」、「もとめられぬ女」、「追いつめられて」の11編。

人間の狂気にスポットを当てた作品が中心の、「怖い」短編集。とにかく壊れた人間の心理・行動が大迫力で、そんな簡単に人を殺すのかよとか、無邪気な殺意がおっかないとか、そういうホラー小説顔負けの恐怖が堪能できる。

「女ともだち」、「女を脅した男」、「父の日」、「愛の神」の4編は、男性性の崩壊および権威の失墜を題材とした短編。戦後の社会情勢を反映したような作品で、男性に対する著者の容赦のない批評眼が冴えている。また、「ウェクスフォードの休日」以降の4編は、シリーズキャラクターであるウェクスフォード主任警部が登場する短編。オーソドックスな謎解き物語が楽しめる。

何と言ってもベストは、MWA賞を受賞した「カーテンが降りて」だろう。詳細は下記の作品別コメントを参照してもらうとして、本書はこれを読むためだけに入手する価値がある。胡乱な精神状態を描く筆致といい、オチの意外性といい、情感を揺さぶる後味といい、全てにおいて群を抜いている。

以下、各短編について。

「女ともだち」(1983)"The New Girl Frind"

酒匂真理子訳。MWA賞短編賞。人妻が既婚男性と密会する。その目的は? という話。どこまでネタを割って良いのか判断に困るが、まず2人の関係に一定の驚きがあって、さらにそこからドラマが展開する。人妻は男性恐怖症で、昔からお守りとして小型ナイフを携帯していたほど。しかし、密会相手とは不思議とウマがあってお泊まりデートすらできる……。結末の救いのなさはいかにも著者らしい。分かっていてもおっかない。★★★。

「女を脅した男」(1982)"The Man Who Frightened Women"

酒匂真理子訳。女を脅かして快楽を得る男が、いつも通り夜の公園で通りがかりの女を尾行する。そして、とんでもない結末を迎える。再読。初読時にはいまいちぴんと来なかったが、今回読み直してみたら江戸川乱歩を思い出させる男の劣等感が凄くて驚いた。女を脅かすことで勝利感を得るだけでなく、男性の機能まで回復してしまうとは! 他、結末のそっけない描写が怖いし、さらに語り手が事件における自分の役割を自問するところに余韻がある。なお、『ミステリアス・エロティクス』には「秘密の副業」という邦題で収められている。★★★★。

「父の日」(1984)"Father's Day"

深町眞理子訳。自分の子供が妻に奪われるかもしれないという、被害妄想に取り憑かれた男の狂気を描く。これは『クレイマー、クレイマー』【Amazon/IMDb】のルース・レンデル風味といった感じ。現代では離婚すると否応なく子供を妻に取られてしまう。『クレイマー、クレイマー』は子供との生活と離婚訴訟を軸にその理不尽さを炙り出していたが、本作の場合は夫の一方的な被害妄想でもってかなり怖い話になっている。★★★。

「時計は苛む」(1985)"The Convolvulus Clock"

深町眞理子訳。手作りの時計を万引きした老嬢が徐々に正気を失っていき、ついに一線を越える。時計がホラー小説の小道具としてよく使われるのは、神経症的に同じリズムで時を刻むからなのだな、と改めて思った。一線を越えてからの一捻りも上手い。盛んに他の老嬢の近況が出てきたのは、全てこのオチのためだったのか、と納得。★★★★。

「雑草」(1989)"Weeds"

深町眞理子訳。郊外にあるとある庭園では1ポンドの入場料を徴収し、雑草を見つけた者に2ポンドを与えるという商売をしている。そこでルールを巡る揉め事が起こり、さらに「事故」が起きる。「女を脅した男」みたいに、事件に直接関与していなくてもパズルの1ピースになってしまう。小市民にとってはなかなか複雑なシチュエーションを描いている。★★★。

「愛の神」(1992)"The Man Who was The God of Love"

深町眞理子訳。この人は知的能力に優れた天才だわ! と夫を崇拝している妻。妻は夫に盲目的な愛情を捧げ、夫の言うことになら何でも従っていた。ところが、そこへ2人の関係を変転させるある事実が発覚する。人間関係というのは残酷なもので、少しでも隙を見せると途端に食われてしまう。権威というのは、威圧される側との共犯関係があって初めて効力を持つものなのだな。本作は結末とそれまでに描かれた夫の動機ががっちり噛み合っていて良い。★★★★。

「カーテンが降りて」(1974)"The Fallen Curtain"

深町眞理子訳。MWA賞短編賞。記憶にカーテンが降りてしまった男が主人公。主人公は6歳のとき、見知らぬ男に車で連れ去られ、その後無事に保護された。しかし、ショックのせいかそのときの記憶がない。成人した主人公は、ひょんなことから事件の起きた空き地へ舞い戻る。そこで当時の自分に似た子供を発見し、彼を車に乗せる。徐々に記憶のカーテンが上がり始め、事態は6歳時の「事件」をリピートしようとしていた……。これは素晴らしい。まず主人公の胡乱な精神状態を描く筆致が素晴らしく、子供と関わる場面は恐ろしいくらいに緊張感が出ている。さらにラストの意外な捻りも素晴らしく、まさかこんな着地の仕方をするとは! とかなり揺さぶられる。本書収録作の中ではダントツのベスト。★★★★★。

「ウェクスフォードの休日」(1978)"Inspector Wexford on Holiday"

小尾芙佐訳。ウェクスフォードもの。休暇で妻とギリシャ旅行に来ていたウェクスフォードが、何か訳ありらしいイギリス人のカップルと出くわす。これは事件の匂いだ、ということで首を突っ込む。ウェクスフォードの観察眼が遺憾なく発揮された好編。知らず知らずのうちに事件の鍵を握っていたという、英語ぺらぺらのギリシャ人の役割が面白い。★★★。

「藁をもつかむ」(1979)"Clutching at Straws"

小尾芙佐訳。ウェクスフォードもの。92歳の老婆が脳出血で死んだ。殺人だと主張する看護婦の依頼で、娘夫婦など関係者に聞き込みを行う。決定的な動機が見当たらないため、自然死だとして諦めようとしたが……。関係者がみんな年寄りであるため、雰囲気がかなり独特。何せ、死んだ老婆の娘は70代だし。で、皮肉的なラストも良いが、それ以前にとある老嬢の無邪気さにやられた。「時計は苛む」といい、本作といい、この著者の描く老嬢はデフォルトでブレーキが壊れていて怖気が走る。★★★★。

「もとめられぬ女」(1990)"An Unwanted Woman"

深町眞理子訳。ウェクスフォードもの。14歳の娘が母親の再婚を機に家出をし、一人暮らしの老嬢の家に下宿する。母親は娘を取り戻すべく、あれこれと手を尽くす。そして……、という話。この14歳がかなりのやり手で、成績は優秀、奉仕活動やアルバイトもガンガンこなすのだから凄い。例によって事件は陰鬱だが、彼女のちゃっかりぶりが微笑ましくて雰囲気は良い。★★★。

「追いつめられて」(1991)"The Mouse in The Corner"

宇佐川晶子訳。ウェクスフォードもの。継父を殺害された娘が虚偽の証言をしているので、どうにかして真実を喋らそうとする。継父には妻の他に愛人がいて、捜査していくうちに入り組んだ人間関係が明らかになっていく。本書の中では異色な普通のフーダニットだった。別事件との繋がりがちょっとぎこちないか。オウム返しのトリックは面白かったけど。★★★。