2005.6b / Pulp Literature

2005.6.11 (Sat)

J・M・クッツェー『夷狄を待ちながら』(1980)

夷狄を待ちながら(110x160)

★★★★
Waiting for the Barbarians / J.M. Coetzee
土岐恒二 訳 / 集英社文庫 / 2003.12
ISBN 4-08-760452-7 【Amazon

帝国の辺境に位置する入植地。そこで20数年勤務してきた民政官が、夷狄との内通の容疑で投獄される。一方、帝国は夷狄の襲来に備えて遠征隊を組織していた。

襲来の噂がありながら、一向にその気配を見せない夷狄たち。ゲリラ攻撃は仕掛けてくるものの、決して正面からは攻撃してこない。本国から送り込まれてきた大佐は、何の罪もない夷狄を大量に捕まえてきて拷問し、帝国への侵攻計画を白状させようとする。しかし、いくら凄惨な暴力を加えても、夷狄の口からは何も出てこない。果たして夷狄はいつ攻めてくるのか? 噂に怯える辺境の人々は宙ぶらりんのまま待つことになる。

夷狄に対して善意を抱く民政官が胡散臭い。しかも、彼を通して描かれる夷狄たちが、終始謎めいたままなのだから余計に胡散臭い。まるでインテリ白人が、ろくに知りもしない黒人のことを分かったふりして擁護してるみたいだ。とどのつまり、帝国に所属する人間は、どんなに思想が同情的であっても、夷狄の考えを代弁することはできないということなのだろう。沈黙する者を解釈するには、どうしたって「変形」という暴力が介在してしまう。そういえば、保護した夷狄女を部族の元へ送り返そうとするエピソードは、『敵あるいはフォー』でフライデイをアフリカへ送り返そうとしたエピソードを思わせるものだった。大佐が振るう行き過ぎた暴力も恐ろしいけれど、同時に民政官の身勝手な善意だって恐ろしさを孕んでいる。

というわけで、辺境をめぐる問題が分かりやすく示されていて面白く読んだ。寓意や象徴の散りばめかたも上手いと思う。

>>Author - J・M・クッツェー

2005.6.13 (Mon)

ケルテース・イムレ『運命ではなく』(1975)

運命ではなく(108x160)

★★★
Sorstalansag / Kertesz Imre
岩崎悦子 訳 / 国書刊行会 / 2003.7
ISBN 4-336-04520-8 【Amazon

大戦中にドイツの強制収容所に送られた著者の自伝的小説。戦時下のブタペスト。14歳の語り手が、同年代の少年たちと共にアウシュヴィッツに収容される。数日後、語り手は別の労働収容所へ移送され、そこで過酷な生活を送る。

収容所文学というと、異論の余地のない惨たらしい悲劇を、ドラマチックというか、扇情的というか、とにかく同情と共感を強制するように語るものだと思っていた。身も蓋もない言い方をすれば、「感動の押し売り」である。ところが、本作はそんな予想とは全く異なる内容だった。冷徹な観察眼を持った少年が、目の前で進行している事実を淡々と語っていく、やけにストイックな内容だった。

ユダヤ人であるという理由で強制収容所に入れられるのはとんでもない理不尽だけれども、本作の語り手はその苦悩を強く主張したりはしない。収容所の食生活は当然ながら貧しく、パンの配給は3分の1や4分の1程度。また、肉体を酷使するせいか通常の生活よりも老化が早く、語り手は14歳にして「しなびた老人」になる。その他、理由のない暴力、非衛生的な環境、体を蝕む病魔の影。本作の語り手はそれらの事実を、あるがままのものして、第三者的な冷淡さで語り続けていく(『異邦人』【Amazon】のムルソーみたいに)。収容所へ連れて行かれるまでの手順や、収容所内での行動様式など、いかにも体験者という感じの事実の重みがある。

さて、過酷な生活を送っている語り手だが、彼の主張といえば、

この美しい強制収容所で僕はもうちょっと生きつづけていたいなあ、(p.198)

みたいに控えめなのだから逆にインパクトがある。やはり悲劇を語るには、変に主観的な煽りを入れたりせず、淡々と事実を重ねていくのが有効なのだろう(*1)。このジャンルは、いかにして押しつけがましい作劇法を避けるかが、完成度の目安の一つになっているような気がする(いや、大して読んでないから知らんけど)。

本作は収容所での閉塞的な生活にかなりの分量が費やされるが、話はそれだけでは終わらない。終盤の「時間」を巡る問答はかなり哲学的で、前述の生活はこれを述べるための実践テキストみたいな趣向になっている。さらにここには、「地獄」の一言で要約されてしまう、画一的な収容所像への批判も含まれている。本作は一筋縄ではいかない問題意識の高い小説だった。

*1: 最近読んだ本だと、『星と呼ばれた少年』【Amazon】や『ケリー・ギャングの真実の歴史』【Amazon】なんかも淡々と語っていた。

2005.6.15 (Wed)

イスマイル・カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』(1986)

★★★★
Qui Ramene Doruntine? / Ismail Kadare
平岡敦 訳 / 白水社 / 1994.1
ISBN 4-560-04317-5 【Amazon

中世アルバニア。名家の生まれのドルンチナは遠方に嫁いで以来、家族の葬式のときですら帰ってこなかった。そんな彼女が今は実家に戻っていて、しかもショックで危篤状態なのだという。「誰に連れ戻されたのか?」と問われた彼女は、3年前に死んだ兄の名前を挙げた。ストレス警備長とその部下が、謎を解くべく捜査する。

不可能趣味で魅力的な謎ではあるけれど、しかしなぜ犯罪性がないのに公僕が介入するのだろう? それは、「死者が墓から抜け出した」みたいな与太話を、国が認めるわけにはいかないからだ。「復活」というのは、我らがキリスト、イエスの特権であり、今回の与太話はそれを冒涜するとんでもない事件なのだ。現代人から見ればもの凄く下らない理由だけれど、しかし話はそう単純でもなかったりする。中世のアルバニアはカトリックと正教会が対立しており、今回の与太話が宗教戦争の引き金になる可能性があるのだ。この事件には、ローマとビザンチン、2つの勢力に挟まれたアルバニアの国情が背景にある。本作はミクロな謎を解く体裁をとりながら、アルバニアの風俗・宗教・社会システムにまで射程を広げ、結果として国家の問題を浮き彫りにしている。近年、ミステリの技法を用いた普通小説(?)が散見されるけれど、言ってみれば本作もそれ系の小説なのである。

作品の雰囲気はけっこう親しみやすく、捜査の過程ではユーモラスなエピソードが散見できる。特に探偵役と部下は、『城』【Amazon】におけるKと助手みたいな関係で楽しい。何というか、部下に対する理不尽な仕打ちが面白いのだ。たとえば、手柄を立てようと必死で仮説を述べる部下を、ぴしゃりと一蹴してしまうところなんかかなり冷酷で笑えるし、さらに部下が突拍子もないある事象に取り込まれてしまうところなんか、本気なんだか冗談なんだか分からなくてこれまた笑える(その状況を見た探偵役の反応が良い!)。

本作は宗教対立と「誓い(ベーサ)」が入り混じる、中世アルバニア独特の雰囲気が面白かった。住民たちが迷信深かったり、平気で拷問が行われたりするところなんか時代を感じさせる。しかもそれでいて、探偵役が迷信に流されない超越的な視点を持っているのだから、現代人としても読みやすい。イスマイル・カダレは今まで全くのノーマークだったので、これからは積極的に追っていきたいと思った。

>>Author - イスマイル・カダレ

2005.6.16 (Thu)

ウィリアム・ゴールディング『蝿の王』(1954)

蝿の王(115x165)

★★★★
Lord of the Flies / William Golding
平井正穂 訳 / 新潮文庫 / 1975.2
ISBN 4-10-214601-6 【Amazon

飛行機の墜落によって少年たちが無人島に漂流する。大人のいないその世界で、彼らは対立しながらも何とか生活する。ところが、平和は長く続かない。徐々に獣性に目覚めていき、仲間割れを起こすことになる。

再読。実を言うと初読のときはあまり良い印象を持たなかった。たかが子供の殺し合いにベルゼブブを持ち出すなんて随分と大袈裟だなあとか、「ほら貝」に過剰な象徴的意味を与えていて興醒めだなあとか、まあそんな風なことを思っていたのだ。ところが、再読してみたらそんなことはあまり気にならなくなっていた。途中までウダウダしててだるかったものの、子供たちが野蛮人化するところに迫力があって楽しめた。

無人島ものの嚆矢である『ロビンソン・クルーソー』は、現地人という外部の存在を「野蛮人」と規定していた。それに対して本作は、同じイギリス人、すなわち内部の存在を「野蛮人」に変貌させている。色つきの粘土を顔に塗りたくり、槍を抱えながら躍り回る。最初はただの野蛮人ごっこに過ぎなかったのが、徐々に暴力的になっていき、ついには理性がぶっ飛んでしまう。善玉の少年が悪玉たちに狩り立てられ、生き残るために智恵を絞るところは、「たった一人の軍隊」といった風情で面白い。大自然の中での孤独な戦闘ということで、この部分に関しては、『ランボー』【IMDb】や『プレデター』【IMDb】なんかを思い出したのだった(そういえば、『プレデター』のクリーチャーはインディアン=野蛮人をモデルにしていた)。

それにしても、理屈の通じない野蛮人たちはおっかない。しかも、これ見よがしに殺意を剥き出しにしているのだから余計におっかない。『プレデター』に限らず、多くのハリウッドのクリーチャー映画は、白人が抱く野蛮人への恐怖を源泉にしているのだろう。ハリウッド映画は「エイリアン」という別の外部を創造することで、原始的な恐怖を回復することに成功した。本作が共同体の内部に目を向けていることを思うと、何だか成立過程に色々な思惑が潜んでそうで興味をそそられる。

>>Author - ウィリアム・ゴールディング

2005.6.18 (Sat)

イスマイル・カダレ『砕かれた四月』(1982)

★★★
A Vril Brise / Ismail Kadare
平岡敦 訳 / 白水社 / 1995.6
ISBN 4-560-04578-X 【Amazon

20世紀初頭のアルバニア。村の若者が復讐の「掟(カヌン)」に従って、対立する一族の男を射殺する。殺人者(ジャクス)として相手の葬式に出席した後、30日間の休戦協定を結ぶことに。今度は狙う側から狙われる側に立場が逆転する。

飛行機が空を駆ける時代なのに、高地では「掟(カヌン)」や「誓い(ベーサ)」といった、昔ながらの価値観に沿って生活している。この土地では「掟」が絶対の権威を持っており、そこにはいかなる国家権力も介入することができない。警察だろうが、行政だろうが、法律だろうがまったくの無力。アルバニアという近代国家に属しながらも、国家機構に編入されるのを頑なに拒んでいる。「掟」が支配する高地地帯は、あたかも独立国家のような特殊地域と化している。

で、この「掟(カヌン)」がとても理不尽なのだ。高地では客人のことを「半神」として扱い、彼らの身の安全に責任を負うことになる。もし、客人が誰かに殺されるようなことがあったなら、その被害者を世話した家庭は、殺人者に対して復讐しなければならない。これだけでも恐ろしいが、もっと恐ろしいのが復讐の連鎖である。というのも、「掟」に従って復讐を果たした後は、これまた「掟」に従って、相手の一族からの報復を受けることになるのだ。そして、報復を受けた一族は、また相手の一族に復讐しなければならない……。つまり、1人の人間の死によって、一族同士の血で血を洗う抗争が始まるのである。もちろん、復讐(=血の奪還)を拒むなんてことは「掟」が許さない。「掟」には唯一無二の強制力があり、拒んだら厳しい罰則を科せられてしまう。

と、そんな理不尽極まりない非情な世界を、本作は焦点人物を変えながら描いていく。人数は3人。1人目は、殺人者として残り30日の猶予を過ごす青年。2人目は、外部から新婚旅行でやってきた男性作家(「掟」に関する著作がある)。3人目は、職務として復讐を奨励する血の管理官(「復讐税」に相当するものを徴収している)。図式化すれば、共同体の内部と外部、そして体制側とその犠牲者(*1)という、対立する関係が導き出される。本作は異なる立場の人間を使って、村にペストのように蔓延する「血の病」を浮かび上がらせている。

本作は序盤のプロットから想像されるようなスリリングな道筋は辿らない。また、世界の源である「掟」についても、明確な価値判断は下されない。筋書きは静謐で、「掟」については批判も擁護もあるがままの意見として投げ出される。こう書いてしまうと刺激のない話だと思われるかもしれないが、実はそうではない。決して逃れることのできない村の閉塞感みたいなのが良く表現されている。内部の人間も、外部の人間も、体制側の人間も、みんな「血の病」に影響されずにはいられない。この小説の主人公は、青年でもなければ作家でもなく、ましてや血の管理官でもない。主人公は、「血の病」を生んだ高地の「掟」なのだ。この世界ならではの宿命的なラストシーンが印象深い。

なお、本作は『誰がドルンチナを連れ戻したか』と姉妹編をなしており、作中に登場する「掟」や「誓い」は、『誰が~』のモチーフである「コンスタンチンの伝説」に端を発している。さらに両者はテーマ的にも表裏一体なので、読むのだったらセットで読みたい。

>>Author - イスマイル・カダレ

*1: まあ、厳密に言えば体制側も「犠牲者」なのかもしれない。自縄自縛という感じで。