2005.8a / Pulp Literature

2005.8.1 (Mon)

J・M・クッツェー『マイケル・K』(1983)

マイケル・K(114x160)

★★★★★
Life & Times of Michael K / J.M. Coetzee
くぼたのぞみ 訳 / 筑摩書房 / 1989.10 / ブッカー賞
ISBN 4-480-83100-2 【Amazon】(単行本)
ISBN 4-480-42251-X 【Amazon】(ちくま文庫)
ISBN 978-4003280317 【Amazon】(岩波文庫)

内戦中の南アフリカ。兎唇のマイケル・Kは養護院を卒業後、ケープタウンで庭師として働いていた。ある日、病気の母が退院、マイケルが引き取ることになる。2人は同居生活を始めるも、町で暴動が発生して住まいが荒らされる。マイケルは母と共に彼女の故郷であるプリンス・アルバートへ旅立つ。

南アフリカが舞台なのに全然それっぽく見えないのは、人種問題がばっさりカットされているからだろうか。いや、それだけではないだろう。町を支配する夜間外出禁止令、許可証を必要とする国内旅行、浮浪者を収容する労働キャンプ。人びとの動きを統制することに血道を上げた南アフリカの社会システムは、あまりに現実離れし過ぎている。ちょうど『夷狄を待ちながら』のような架空の舞台といった雰囲気が強く、まるで固有名詞だけ現実のものを用いたような、異世界の「南アフリカ」という印象を受ける。

旅に出たマイケルは、空家となった農場で生活したり、労働キャンプに収容されたり、医療キャンプで同情されたり、様々な環境で暮らすことになる。彼は社会から離れた野性的な生活に満足できる反面、キャンプでの「与えられる」生活には馴染むことができない。後者には住む場所と労働(それに伴う賃金)が保証されているというのに、それでも彼にとって永住の場所になることはない。マイケルは隷属を要求する社会機構に順応できず、それが高じてか、キャンプで与えられる食物を口にできなくなる。ちょうど、『食べられる女』のヒロインが摂食障害をおこしたように、奴隷として食べられる存在に転落したマイケルも、摂食障害をおこして痩せ衰えることになる。脅しと施し、暴力と慈善。あの手この手で体制側に迫られることで、マイケルの体は拒否反応を示すようになる。

『夷狄を待ちながら』の民政官が、体制側でありながら夷狄のことを同情したように、本作でも進歩主義的な医者が、マイケルのために様々な手を尽くし、彼を理解しようと努める。しかし、結局は理解することができず、自分たちの理屈で彼を勝手に「変形」することになる(そもそも、名前からして「マイケルズ」と勘違いしている)。このエピソードが示すのは、いくら頑張っても支配者側が被支配者側の主張を代弁することはできないということなのだろう。『夷狄を待ちながら』の夷狄、『敵あるいはフォー』のフライデイ。自己主張をしないマイケルは、彼らのように理解できない他者としてしか存在を許されない。

暴力と慈善に翻弄されたマイケルが、遍歴の果てに辿り着いた場所。それがどこかは置くとして、生きることへの不屈な意志と、僅かな希望を覗かせるラスト一段落が良い。存在の痕跡を残さず、日々の糧を大地から受け取る生き方。抑圧をかわして隷属化を拒むその生き方は、『敵あるいはフォー』のロビンソン・クルーソーに受け継がれている。本作は心にずっしりくる小説だった。

>>Author - J・M・クッツェー

2005.8.3 (Wed)

東野圭吾『トキオ』(2002)

トキオ(112x160)

★★
講談社 / 2002.7
ISBN 4-06-211327-9 【Amazon
ISBN 4-06-275166-6 【Amazon】(文庫)

遺伝病の発症によって運動機能が麻痺し、さらに意識障害に陥った、10代の少年・時生(トキオ)。彼は今から20年以上前、当時23歳だった父親の前に現れ、行動を共にしていたのだった。若き日の父の物語が始まる。

失踪人捜しと、タイムトラベルと、親子の物語を組み合わせている。時は1979年、舞台は東京。父はちんぴらで喧嘩っ早く、いつか一山当ててやるんだと息巻いていた。当時、キャッチセールスのバイトをしていた彼は、持ち前の忍耐力のなさを発揮、気に入らない上司をぶん殴る。そこへ謎の少年トキオが登場。時空を越えてやってきた少年は、父を実母に会わせようと画策する(父は少年の正体を知らない)。しかし、養子だった父は自分を捨てた実母を憎んでおり、彼女と会う気配はまったくない。これでは話が先に進まないというところへ、父の恋人が犯罪に巻き込まれて失踪。親子は大阪まで捜索の旅に出る。

というわけで、これは失踪人捜しで登場人物を転がしつつ、親子の物語を消化していくという形だ。「実母に会いたがらない父と、彼を説得するトキオ」という予定調和的な図式を、スリリングな事件に上手く紛れ込ませている。物語を牽引する筋が、単線ではなく複線であるため、終盤まで興味は持続。失踪事件と親子の話が、ほどよく絡まりながら進んでいく。

確かにぐいぐい読ませる話ではあるけれども、感動を作るために用意されたエピソードとキャラクターが、ほとんど記号的な紋切り型だったのが気になった。家庭環境を恨んでいる父に対して、そんなもん目じゃないと言わんばかりの、「重い過去」を背負った女をぶつけてみたり。実父と実母の「泣かせる物語」が秘話として挿入されたり。難病を抱えたトキオが自身の出生を喜び、それが父の出生の事情とクロスして語られたり。この小説はタイムトラベルという工夫があるものの、基本的に感動の組み立て方は正攻法である。そのため、個々のパーツに捻りや奥行きがないと、教科書通りのどこかで見たような話で終わってしまう。確かに物語の流れはスムーズだし、事件解決後の男女関係は上手いと思ったし、ラスト一行もしっかり決まっていると感心もした。けれども、全体としては随分と表面的な話だった。

ところで、東京から大阪への西向きの運動が描かれた本作は、一部で話題の「極西小説」に分類されるのだろうか? ほか、東京の下町が持つ人情のイメージを修正し、大阪の人情を強調する姿勢が興味深かった。

>>Author - 東野圭吾

2005.8.5 (Fri)

J・M・クッツェー『少年時代』(1997)

少年時代(108x160)

★★★
Boyhood: Scenes from Provincial Life / J.M. Coetzee
くぼたのぞみ 訳 / みすず書房 / 1999.8
ISBN 4-622-04680-6 【Amazon

1950年の南アフリカ。当時のクッツェー家はヴースター郊外の団地に住んでいた。地元の学校に通うジョン少年の生活を、エピソード集のような構成で物語る。

何となく『トム・ソーヤの冒険』みたいな腕白少年ものを想像していたら、まったく内容が違っていたのでびっくりした。田舎が舞台のわりには牧歌的でなく、少年時代が題材のわりにはノスタルジックでもない。ひとことで言えば、えらく内向的な話だった。

クッツェー家はアフリカーナ(オランダ系移民)の家系なのに、家では英語を話している。そのせいか、少年はアフリカーンス語はあまりしゃべれない。地元の学校はその多くをアフリカーナの生徒が占めている。少年はロシア人に憧れつつ、栄光に彩られたイギリスの歴史にも傾倒している。野蛮なアフリカーナは大嫌い。政情の変化によって、アフリカーナ専用のクラスに入れられるのではないかと恐れている。宗教は無宗教だ。しかし、学校ではカトリックと偽っている。成績はとても優秀。ときおりアフリカーナの少年らにイジメられる。近所にはこれといった友人はなく、もちろん親友と呼べる者は1人もいない。家庭では母親に好意的(愛憎なかば)で、父親には敵意を募らせている。どれくらい母親が好きかというと、それは次のような文章が出てくるほど。

母親が死ぬところなど想像もつかない。彼の生活のなかで母親ほど不動のものはない。母親という岩の上に、その子は立っているのだから。彼女がいなければ、自分の存在価値はない。 (p.45)

要するにマザコンである。父親嫌いの反動なのか、それとも母親が家庭で主導権を握っているからなのか。いずれにせよ、少年は母親に並々ならぬコンプレックスを抱いている。

と、そういう平凡な少年像からだいぶかけ離れた存在が、本作の主人公ジョン少年である。少年は「その子」というように、三人称の突き放した視点で語られる。「その子」は周りから浮いた存在であるせいか、観察はえらく病的だ。その屈折ぶりと、南アフリカならではの風俗、そして人種関係の歪みが渾然一体となって、独特の雰囲気を作っている。白人の「その子」にとってカラードや黒人は、やっぱり「夷狄」のような存在で、彼らとは一定の心理的・物理的距離が置かれている。さらに、孤高の存在である「その子」は、アフリカーナやイギリス人とも深くコミットしていない。クッツェーの小説は、理解できない他者との関係を題材にしているけれど、どうやらそのルーツは少年時代にあるようだ。

>>Author - J・M・クッツェー

2005.8.7 (Sun)

江國香織『なつのひかり』(1995)

なつのひかり(110x160)

★★★
集英社文庫 / 1999.5
ISBN 4-08-747048-2 【Amazon

バーで歌手のバイトをしている、一人暮らしの20歳の女性。彼女のもとへ、逃げたヤドカリを捜しに隣りの家の少年がやってくる。一緒に捜索するも、ヤドカリは見つからない。そうこうしているうちに義姉が失踪し、さらに兄の重婚が判明する。

この著者の小説を読むのは今回が初めて。本作は初期の村上春樹を思い出させる、緩い雰囲気のファンタジーがかった話だった。彫像のように何時間も身動きしない兄、彼を愛人にしている50代のセレブ女性。いつの間にかフランスで探し物をしている義姉、銭湯でひとっ風呂浴びているヤドカリ。他人の赤ん坊に執着する女子高生、非常階段でいつもくすくす笑いをしている、不気味な双子の姉妹……。まるで不条理小説のように人物の実在感が希薄で、彼らによって作り出される不思議ワールドに引き込まれる。

ただ、物語がファンタジックな方面に加速するところから、いまいちついていけなくなったかな。日常生活を送っているうちは、人物の風変わりさに面白味があって、とても楽しみながら読んだ。けれども、終盤で冒険するところから、奇抜なイメージの奔流が過剰になっていて、山場を作るために無理しているんじゃないか、と思ってしまった。どちらかというと、キャラの奇妙さで持たせていた中盤までが好み。この辺りまでは相当な良作であることを予感していた。

ところで、失踪人捜しにしても、物探しにしても、自分探しにしても、とにかく何かを「捜索する」ということは、物語を転がす格好の原動力になる。しかしその反面、そうやって転がされた物語には、オチをつけるためにけっこうな制約が課せられてしまって、なかなか大変なものなのだなと思った。これは別に、本作がその制約に振り回されていると言いたいわけではなく、捜索小説(たったいま名付けた)に関するちょっとした思いつきということで。

>>Author - 江國香織

2005.8.9 (Tue)

村上春樹『風の歌を聴け』(1979)

風の歌を聴け(115x160)

★★★★
講談社文庫 / 1982.7
ISBN 4-06-131777-6 【Amazon

大学生の「僕」が海辺の町に帰省している1970年8月の出来事が中心。友人の「鼠」とバーでビールを飲みつつ、介抱した左手4本指の女の子と仲良くなる。

『1973年のピンボール』【Amazon】を読み直すついでに再読。この小説は、覇気のない登場人物たちが気怠い無気力な日々を送る話なのだけど、そこには自棄的ともいえる諦観の念が流れていて、ある種の人間の共感を呼ぶような魅力がある。

叔父の一人は地雷を踏んで死に、もう一人の叔父は癌で苦しみ抜いて死んだ。3人目の恋人は春に自殺をし、介抱した女は堕胎という形で赤ん坊を殺す。作家のデレク・ハートフィールドはエンパイア・ステート・ビルから飛び降りて死に、大学で「僕」は実験目的で動物を殺している。こうして様々な「死」のエピソードが織り交ぜられながら、それらが「みんないつかは死ぬ」という達観に収斂される。

文明とは伝達である、とこの小説は主張する。1969年は「僕」が伝達の手段を模索していた時期で、物事を具体的な数字に置き換えるという涙ぐましい努力をしている。そんななか、翌年、恋人は原因不明の自殺を遂げる。ここで伝達の失敗が「死」と結びつけられ、それがラジオ番組のエピソードや精神科医に罹った少年期、ハートフィールドの小説など、様々なイメージとくっつきつつ、「みんないつかは死ぬ」という達観に収斂される。しかも、話はこれだけでは終わらない。帰省中の今夏、追い討ちとばかりに堕胎のエピソードが覆い被さってくる(でもって、その後に暖かみを感じさせるラジオの章が挿入される。これがもの凄く絶妙)。

とまあ、一見すると重い内容だけれども、その重さをほろ苦さにまで抑えているところがこの小説の凄いところだろうか。全てが軽やかに通り過ぎ、あまり感傷的な味がしないのが良い。初期の村上春樹は凄かったのだなと思った。

>>Author - 村上春樹