2005.10b / Pulp Literature

2005.10.11 (Tue)

フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』(1988)

黄色い雨(109x160)

★★★
La Lluvia Amarilla / Julio Llamazares
木村榮一 訳 / ソニー・マガジンズ / 2005.9
ISBN 4-7897-2512-X 【Amazon

住民たちが次々と余所へ移っていったスペインの廃村。息子が出ていき、妻が自殺し、ついに村は男と雌犬だけになる。ある日、孤独な生活を送る彼のもとに、物言わぬ亡霊たちがやってきた。

朽ち果てていく村と運命を共にする男の生き様を、会話文を交えない詩的な文章で綴っている。毒蛇に噛まれ、食糧が尽き、周りでは次々と家屋が倒壊していく。追憶に身を委ねるしかない、寂寥感たっぷりの生活のなかで、男は不可避的な「死」と向かい合う。村に近づいてくる人間を猟銃で追い払うところに病的なものがあるけれど、しかしそれでいて彼の奇妙なライフスタイルにはあまり違和感がない。滅ぶのを待つのが当たり前、みたいな雰囲気になっている。

この小説は文章で魅せるような体をとりながら、クライマックスに『ハツカネズミと人間』のような周到さがあって意外だった。犬の始末をして自らを省みるシーンなんか、伏線がばっちり決まったような腑に落ちる感覚がある。

文章表現が変わっているのは著者が詩人だからだろうか。「~だろう」を連続して使用する突き放した語りから入り、自らの生活・観念に密着した視点を経由して、また突き放した語りに戻っていく。本作は距離のとりかたと色彩的な描写が印象的だった。こういう起伏の少ない詩的な小説も、たまに読むのだったら悪くない。

>>Author - フリオ・リャマサーレス

2005.10.12 (Wed)

ジョイス・キャロル・オーツ『フリーキー・グリーンアイ』(2003)

フリーキー・グリーンアイ(109x160)

★★
Freaky Green Eyes / Joyce Carol Oates
大嶌双恵 訳 / ソニー・マガジンズ / 2005.9
ISBN 4-7897-2631-2 【Amazon

人気スポーツキャスターを父に持ち、高級住宅街で恵まれた生活を送る14歳の少女。そんな彼女の家庭が、父と母の亀裂をきっかけに崩壊していく。

扇情的なサスペンス小説の筋立てを、ヤングアダルト(YA)小説の枠内でやり通した、えらく大胆な小説だった。標準的なYA小説だと、日常の苦い経験を通して、少女の葛藤や成長が描かれるわけだけれど、本作の場合は一味違う。YAらしい倫理的な内容でありながら、それを表現するために起きる出来事がかなり不敵。よくある夫婦間の不和が、予想外の方向へ転がっていくのに驚いた。

ここで少しあらすじを書いておこう。少女の家庭はハイソな体育会系。元アメフト選手にして現スポーツキャスターの父が、一家を牛耳っている。父は典型的な根性論者のマッチョマンで、子供たちにもスポーツをやらせている。普段は良きパパとして家族にユーモアを振りまいているが、性格はかなり偏狭かつ病的。物事が自分の思い通りにいかないとキレたりする。その持ち前の身勝手さによって、彼は芸術家肌の妻を抑圧、ついに夫婦は別居生活に至る。そして……。

適度に謎を残しつつ、事態は宙吊り状態になり、そのなかで少女の葛藤が描かれていく。確かに風呂敷の広げ方には驚かされたけれど、ただ、物語が単純な善悪二元論に落ち込む、収束の仕方に不満をおぼえた。どうしようもない憎まれ役に全てを押しつけて、少女サイドを良い子ちゃんにしようとする、そういう手口が見え透いているというか。特に母と娘がつける「日記」が胡散臭くて、この後に及んでそんな聖女のような感情を抱けるのだろうか、と疑問に思った(*1)

なお、翻訳に違和感。「キレた」とか、「ムカついた」とか、「マジで」とか、ティーンエイジャーの言葉を再現するつもりなのか、現代日本の流行語が散見される。該当箇所だけ表現が浮いていて、いちいち引っ掛かりながら読んだ。

>>Author - ジョイス・キャロル・オーツ

*1: まあ、「日記」の性質上、自分を良く見せるための欺瞞という線も捨てがたいのだけど。

2005.10.13 (Thu)

J・M・クッツェー『エリザベス・コステロ』(2003)

エリザベス・コステロ(110x160)

★★★
Elizabeth Costello / J.M. Coetzee
鴻巣友季子 訳 / 早川書房 / 2005.2
ISBN 4-15-208621-1 【Amazon

『ユリシーズ』を換骨奪胎した小説で名声を博した、オーストラリアの老作家エリザベス・コステロ。そんな彼女が、世界各地で文学談義・哲学問答を行う。「リアリズム」、「アフリカの人文学」、「悪の問題」など、全6トピック。

「文学」にあまり関心がないせいか(こういうサイトをやっていて何ですが)、本作の内容には軽く戸惑いをおぼえた。いかにもキリスト教文化圏って感じの世界観・文学観にカルチャーショックを受けたというか。特にそういった傾向が顕著に感じられたのが、「アフリカの人文学」と「悪の問題」で、人間の精神に立ち入ったそのイデオロギーは、当該文化圏から外れた身には理解しがたいものがある。文学が人を救済する? 文学はいかにして悪に関わるべきか? 文学ってそんな大層なものなの? これはもっと西洋のことを勉強し、文学に興味を抱いてから読み直すべきだと思った。

以下、適当に覚え書き。

「リアリズム」

小説のリアリズムについて講演する。

どちらかというと、講演よりも親子関係のほうが面白かった。息子は老いたコステロのお守り役でいるのだけど、彼の心中には複雑な思いが入り混じっているという。大作家を親に持つのも大変そうだ。

「アフリカの小説」

クルーズ船で乗客相手に講演する。

アフリカの文学は外国を意識しているだとか、口承文化の伝統だとか、そんな話をしている。『小さきものたちの神』を読んだときの違和感はあながち的外れではなかったのだな。異国趣味を前面に出すことへの不信というか。なお、この回にはナイジェリアの2人の作家、エイモス・チュツオーラとベン・オクリへの言及がある。

「アフリカの人文学」

ヘレニズムとカソリシズムについての議論。

ギリシャ文化とキリスト教文化、どちらがアフリカ人のためになるのか。これはどうなんだろうなあ……。キリスト教については、貧困とか不幸とか、他人の弱みにつけこんで勢力の拡大をしているというイメージがあるので、申し訳ないがこの結末は真面目に受けとれなかった。単に洗脳されてるだけじゃないの? と思ってしまう。

「悪の問題」

エリザベス・コステロが暴走する。

ポール・ウエストのナチス拷問小説(*1)を読んだコステロが、見せなくてもいい「悪」を臨場感たっぷりに書いたとして、彼の出席する講演で批判する。「悪」には隠匿すべき「悪」があるという。「悪」の小説を読んだり/書いたりしたら、読者/作者は「悪」に染まるだとか、電波度が高くてびっくりした。自らの実感をベースにしたその主張は、逆説的に「悪の問題」を論じることの不毛さを浮き彫りにしているような気がする。サタンや小悪魔など、宗教シンボルを援用するところが興味深い。

「エロス」

神と人間のセックスについて。

神からすれば人間とのセックスは獣姦に等しいんだと思う。

「門前にて」

カフカ的世界で哲学問答する。

閉ざされた門を開くため、えらい人たちの審判を受ける。嘘でもいいから相手の要求を認めればいいのに、何とかそれを回避しようと抵抗するのが面白い。

「追伸」

『チャンドス卿の手紙』を下敷きにした掌編。

>>Author - J・M・クッツェー

*1: 『シュタウフェンベルク伯爵のきわめて豊かな時間』。

2005.10.14 (Fri)

フランク・ターナー・ホロン『四月の痛み』(2002)

四月の痛み(113x160)

★★★
The Pains of April / Frank Turner Hollon
金原瑞人 大谷真弓 訳 / 原書房 / 2005.10
ISBN 4-562-03956-6 【Amazon

老人ホームで暮らす「わたし」は86歳の元弁護士。彼の思い出話や現在の生活を、断片的な章立てで物語る。

本作は老人らしくない老人の話だった。死に抵抗するわけでもなければ、生に執着するわけでもなく、ただ淡々と日々の暮らし、および人生についての透徹した見解を披露している。結婚は他の可能性を諦める行為だとか、墓へ入るだけが死ではないだとか、まあとにかくそういった類の、気の利いたフレーズが散りばめられている。

特徴的なのが詩情を感じさせる控えめな描写で、いくつもの細かいエピソードを、簡潔な文体でさらっと書き流している。たとえ同室の友人が死のうとも、その筆致は感傷に湿ることはない。生きている人間はたとえ老境でも生きていく、みたいな達観した空気は、哀切を帯びながらも一種の清々しさをたたえている。地味な内容と、中編程度の長さと、シンプルな装丁を備えた本書は、いかにもプレゼント向きの本という感じがする。

それで感想としては、良くも悪くもほどほどといったところだった。気の利いたフレーズにしても、詩情を感じさせる描写にしても、パンチや深みが足りないんじゃないかと思う。確かに「わたし」の視点はユニークだし、登場人物もエキセントリックだけど、それらは観念的で説得力がないというか。終始、どこかで読んだような小説という印象が拭えなかった。

ちなみに、著者は執筆当時26歳。その若さで86歳の内面を描いたとして、本書はやたら年齢が喧伝されている。

>>Author - フランク・ターナー・ホロン

2005.10.16 (Sun)

リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』(1967)

アメリカの鱒釣り(112x160)

★★★
Trout Fishing in America / Richard Brautigan
藤本和子 訳 / 新潮文庫 / 2005.8
ISBN 4-10-214702-0 【Amazon

表紙の話からマヨネーズの章まで、<アメリカの鱒釣り>を題材にした47の掌編集。

著者はビート・ジェネレーションにカテコライズされる作家で、本書は世界中で200万部のベストセラーになったとのこと。内容は詩のような文体を用いた軽めのショートショート集。<アメリカの鱒釣り>とは何者だとか、何でそこでマヨネーズが出てくるのだとか、そういう発想の奇抜さが味わえる。また、アメリカの貧困層への言及も多く、そこにはユーモアの衣に包んだ独特の情趣が滲み出ている。

待望の文庫化ということで読んでみたけれど、正直いってそんな伝説化されるほどの傑作とは思えなかった。これは当時のアメリカ文化をろくに知らなかったからというのもあるし、先にバリー・ユアグローや村上春樹の小説群を読んでいたからというのもある。奇想や語り口の面白さは、彼の後継者たちによって完成の高みにまで達したということか。カウンターカルチャーについてはよく分からなかったけれど、とりあえず、ユアグローと村上、両人の源流を遡るという意味では興味深かった。

以下、各短編について。なお、気に入った短編には末尾に☆をつけた。

「『アメリカの鱒釣り』の表紙」

ベンジャミン・フランクリン像付近を切り取った掌編。四つの方角に向けた「ようこそ」や、カフカの言葉で締めるラスト一行など、何でもない風景に楽観的なユーモアの味付けがあって良い。☆。

「木を叩いて その1」

1942年の夏に、義父が鱒釣りについて話してくれたとか。この段階ではまさかナンセンス路線の小説とは思っていなかったので、<アメリカの鱒釣り>って何者だよ! って感じの奇妙な可笑しみをおぼえた。

「木を叩いて その2」

子供のころの鱒釣りの思い出。クリークで鱒を釣るなんていかにもアメリカの原風景だなあと思って読んでいたら、上手く梯子を外された。パンを食べるまでの一連の流れも良ければ、<アメリカの鱒釣り>って何者だよ! って感じのオチも良い。会話に出てくるお婆さんの何気なさ。☆。

「赤い唇」

17年後。釣り道具をかついだ「わたし」が、川下まで乗せていってくれる車を待っている。便所に向かって吐き捨てる、最後のセリフが印象に残る。これは翻訳が上手いのか。

「クールエイド中毒」

子供のころの思い出。貧困家庭の子弟が脱腸してクールエイド中毒になる。子供ならではのロマンチシズムが感じられる一編だった。クールエイドに託された期待感と、儀式をやり通すたくましさ。☆。

「胡桃ケチャップのいっぷう変わったつくりかた」

たぶんレシピを用いるのは奇想系ショートショートのお約束なんだろうけど、それにしてもマリア・カラスがガールフレンドという仮定は面白い。<アメリカの鱒釣り>の言葉に対する、彼女の投げやりな返事が良い。☆。

「グライダー・クリーク プロローグ」

ジョン・ディリンジャーの出身地の話。鼠に弾丸をぶちこむ。

「グライダー・クリーク」

スクールバスの運転手に釣場の地図を書いてもらう。

「<アメリカの鱒釣り>のためのバレエ」

コブラ・リリーという食虫植物の話。

「アル中たちのウォルデン池」

ワシントン公園でヒッピーの画家たちと酒を飲む。通りすがりの女から「アル中」と軽蔑された男たちが、精神病院に希望を見出す異様な内容なのだけれど、それを眺める視線には包容力がある。☆。

「トム・マーティン・クリーク」

峡谷から流れ出した小さなクリークで9インチの鱒を釣る。

「墓場の鱒釣り」

金持ちの墓場と貧乏人の墓場。その2つの間を流れるクリークで鱒を釣る。この掌編にも貧乏人への暖かい眼差しが向けられているけれど、今回は地の文でストレートに書いていてちょっと白けた。こうなると、幻想的なオチもいまいち乗れない。

「Sea, Sea, Rider」

本屋での奇妙な体験。人生についてドストエフスキーと娼婦から学んだ、ってどこかで読んだような。ま、それはともかく、時間を用いた比喩とか、本のページに加速度がつくラストとか、光る表現がちらほらあって刺激的だった。

「ヘイマン・クリークに鱒がのぼってきた最後の年のこと」

ヘイマン・クリークの由来から始まり、幻想的なオチで終わる。男の生死とクリークがリンクし、最後に嘘みたいな出来事が持ち上がる。枚数が少ないんで心揺さぶる読後感はないけれど、これはこれで軽くて良いかな。

「ボルトワインによる鱒死」

鱒にボルドワインを飲ませて死なす。自然の秩序に反した死とか言いながら、最後にそれなりの因果が判明する。ラストの2人の会話が面白い。アル中万歳。

「<アメリカの鱒釣り>検屍解剖報告」

タイトル通りの検屍解剖報告。1編くらいならこういうのもありって感じで、上手くアクセントになっている。

「メッセージ」

羊をめぐる冒険。

「アメリカの鱒釣りテロリスト」

アメリカの鱒釣りテロリストになった、小学6年生のころの思い出。後輩の背中に落書きするところが、とぼけた感じで可笑しい。☆。

「FBIと<アメリカの鱒釣り>」

<アメリカの鱒釣り>宛てに指名手配犯に関する手紙。やっぱり鱒のいる川を探すのか……。

「ワースウィック温泉」

温泉でセックスして射精する。

「ネルソン・オルグレ宛<アメリカの鱒釣りちんちくりん>を送ること」

両足を鱒に噛みきられて車椅子に坐る、<アメリカの鱒釣りちんちくりん>について。アル中の障害者の肖像をぶっきらぼうな調子で描く。

「二十世紀の市長」

ロンドンで殺人者が<アメリカの鱒釣り>の格好をしている。ミュージカルの歌詞みたいな内容だった。

「パラダイス」

羊をめぐる冒険。

「カリガリ博士の実験室」

水たまりとさくらんぼ摘み。

「ソルト・クリークのコヨーテ」

青酸カリでのコヨーテ退治を、ガス室と結びつける。英語、スペイン語と来て、ロシア語はない、とちゃんと落ちているけれど、このレトリックももう使い古されてるか。

「せむし鱒」

そういえば、この本は細かい数字に拘ってるな。「バナナフィッシュにうってつけの日」や『風の歌に聴け』みたいに。

「テディ・ルーズヴェルトの悪ふざけ」

モルモン教徒について。

「『ネルソン・オルグレ宛<アメリカの鱒釣りちんちくりん>を送ること』に補足して」

<アメリカの鱒釣りちんちくりん>が映画に。社会派でもSFでも見せ物にされている。

以下、省略。さすがに全部は無理。

>>Author - リチャード・ブローティガン

2005.10.17 (Mon)

歌野晶午『女王様と私』(2005)

女王様と私(119x160)

★★★
角川書店 / 2005.8
ISBN 4-04-873628-0 【Amazon

「妹」を溺愛しているひきこもりのロリコンデブオタが、女の子と出会って殺人事件に巻き込まれる。

『世界の終わり、あるいは始まり』【Amazon】や『葉桜の季節に君を想うということ』【Amazon】など、この著者の文章はオタク世界と親和性が高いと思っていたら、今回はそのままずばりときた。近年話題の倒錯者が主人公である。正直いって先に挙げた2作はライトノベルっぽい紋切り型の過剰さが気持ち悪かったけれど、今回は物語がオタクの一人称で進むせいかさほど違和感をおぼえなかった。現実にはあり得ないような仕草(腰に手をあててぷんぷんと怒るとか)が出てきても、まあオタクが主人公だからといった感じで納得できる。

序盤から連城三紀彦ばりにバシバシ小技を決めていき、デブオタが女の子の奴隷になりつつ事態は急展開する。オタク版ボーイミーツガールから本格的な推理小説路線に変わったのには驚いたけれど、ただ構成が構成なので、推理パートはいまいち真面目に読む気になれなかった。こうあからさまに一定方面の仕掛けが示唆されると、事件それ自体に興味が沸かず、別に合理的なプロセスを踏まなくてもいいよと思ってしまう。実際、後のサプライズエンディングと繋がりが薄いのは、小説としては致命的なのではないだろうか。せめて2つを緊密に結ぶ、太い伏線がいくつか張られていれば納得できたろうにと思う(その意味で表紙の裏の文字列は良かった)。

一方、オタクの人物像は面白い。ナイフを携帯する、人形とお話をする、甲高い声で蘊蓄をまくし立てる。その病的なコミュニケーション不全ぶりは、まさにその道のステレオタイプといった感じ。我々が思い描いている類型としてのロリコン・オタク像が、本作ではそれなりに活写されている。

>>Author - 歌野昌午