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- 22 : エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』(1924)
- 25 : 『バートン版 千夜一夜物語 3』
- 28 : W・G・ゼーバルト『目眩まし』(1990)
- 29 : 伊坂幸太郎『砂漠』(2005)
- 31 : ヘルマン・ヘッセ『青春は美わし』(1916)
2006.1.22 (Sun)
▲エマニュエル・ボーヴ『ぼくのともだち』(1924)

★★★
Mes Amis / Emmanuel Bove
渋谷豊 訳 / 白水社 / 2005.11
ISBN 4-560-02737-4 【Amazon】
傷痍軍人年金で細々と暮らす「ぼく」が、友だちを求めて街をうろつきまわる。船乗りやカフェの女給など、5人の友だち候補と関わる。
コミュニケーション弱者の悲哀を綴った話かと思ったら、意外とそうでもなくて、20年代のパリのありようを、底辺層の目線で切り取った小説だった。友だちが欲しい語り手は、知り合った人と親密になろうとするのだけど、その試みは毎回失敗する。各章のタイトルは友だちになり損ねた人たちの名前がつけられており、彼らとの交渉の過程が連作短編集のような構成で語られている。孤独な「ぼく」の内面描写を主眼としつつ、一方で彼の友だち探しは、様々な庶民と関わるための手段として記号化している。
自己存在を確認すべく、友だちという他者を求める。語り手が友だち探しに腐心するのは、優越感を持つためだったり、孤独を紛らわすためだったりで、動機は恐ろしいほど自己中心的。物語を通して、普遍的とも言える「非モテ」の葛藤が描かれるわけだけれど、語り手の空気の読めない行動(女に手を出してそれまでの関係が解消される)がギャグの領域にまで達しているせいか、ひどく作り物めいた印象があった。肝心な場面で自己抑制できないところは、パトリシア・ハイスミスのサスペンス小説(『リプリー』【Amazon】、『妻を殺したかった男』【Amazon】など)を彷彿とさせる。これを優れたユーモアとして賞賛するのに疑問をおぼえながらも、とりあえず深刻ぶらない姿勢には好感を持った。
特に上手いと思ったのが各人物との離別の場面で、結末はどれも寂寥感が抜群だった。ちょっとしたことで心理的に断絶する、落とし穴のような瞬間が、細やかな筆づかいで捉えられている。平易な語り口の本作は、気軽に読める佳作といったところだろう。
2006.1.25 (Wed)
▲『バートン版 千夜一夜物語 3』

★★★
Alf Laylah Wa Laylah / Richard Francis Burton
大場正史 訳 / ちくま文庫 / 2003.12
ISBN 4-480-03843-4 【Amazon】
ISBN 978-4480038401 【Amazon】(全11巻セット)
19世紀の東洋学者リチャード・F・バートンによる翻訳。「オマル・ビン・アル・ヌウマン王とふたりの息子シャルルカンとザウ・アル・マカンの物語」、「鳥と獣と大工の物語」、「隠者の話」、「水鳥と亀の物語」、「狼と狐の話」、「二十日鼠と猫いたちの話」、「猫と烏の話」、「狐と烏の話」、「はり鼠とじゅずかけ鳩の話」、「泥棒と猿の話」、「雀と孔雀の話」、「アリ・ビン・バッカルとシャムス・アル・ナハルの物語」の12話を収録。第九十六夜から第百七十夜まで。
『バートン版 千夜一夜物語 2』の続編。この巻は読むのがきつかった。大長編で紙幅の半分を消化した後、信仰心を煽り立てる教訓話が10話も続いている。語り手としては大作の後のワンクッションのつもりだったのだろうけど、それにしては内容があまりにナイーブで、読んでいてテンションが下がってしまった。アラーに祈りを捧げなかったから命を失いました、なんて話が出てきたときはどうしようかと思ったよ。
以下、各物語について。
「オマル・ビン・アル・ヌウマン王とふたりの息子シャルルカンとザウ・アル・マカンの物語」(第九十六夜―第百四十六夜)
前巻の続き。イスラムの2人の王、シャルルカンとザウ・アル・マカンが、キリスト教国のスパイ(老婆)によって窮地に追い込まれる。
長かった! これ1話だけで700ページほどあって(前巻と併せて)、正直、序盤の展開がどうだったのか記憶が薄れていた。宝石のエピソードが終盤で生きてくるのには感心したけれど、今思えば、兄と妹による近親相姦はいったい何だったのか疑問に残る。
老婆が悪魔的な狡猾さで暗躍する。タイトルから、シャルルカンとザウ・アル・マカンの世代で決着するのかと思ったら、その子供の代まで続いていて意外だった。老婆打倒のロジックも、単純な武力による制圧ではなく、迂遠な物語を介しているのが面白い。運命的な繋がりがそこかしこに張り巡らされていて、古き良き時代の大河小説といった風格がある。
挿話については、入り方がいつもと変わっていた。最初の「タジ・アル・ムルクとドゥニャ姫の話」は、王さまの悲しい気分を紛らわせるため、側にいた大臣が物語りをするという趣向になっている。
「アジズとアジザーの話」は、男性だったら誰もが怖気をふるうような、凶悪な展開が待ち受けている。雄鶏として監禁されるだけならまだしも、その後のアレは……。全体的に『千夜一夜物語』は、美女に対して男性の立場が弱くて、けっこう身につまされるところがある。
以下、挿話。
- 「タジ・アル・ムルクとドゥニャ姫の話」 - とある国の王子が他国の姫に結婚を申し込むも、男嫌いの姫はそれを断る。
- 「アジズとアジザーの話」 - 美女の謎めいた行動に困惑気味の商人が、従妹の智恵を借りて思いを遂げる。そして、悲惨な事件に巻き込まれる……。
- 「麻薬を飲んだ男の話」 - 麻酔剤(ハシシ)を飲んだ男のトリップ体験。
- 「バダウィ人ハマッドの話」 - 盗賊をひきつれたバダウィ人のハマッドが、人里離れて隠れ住む兄妹のもとにやってくる。美貌の妹に惚れた彼は、兄と武力闘争することに。
「鳥と獣と大工の物語」(第百四十六夜―第百四十七夜)
動物たちが人間の奸智について語る。
人間は身体能力が低いくせに悪智恵がはたらくから油断ならねー、という話。機知に富んだ小咄かと思っていたら、最後に教訓話らしい捻りが待っていた。アラビア人は敬虔すぎる。
「隠者の話」(第百四十七夜―第百四十八夜)
人里離れた山で暮らす羊飼い。そんな彼の前に美女が現れる。
模範的イスラム教徒の何たるかを説いた教訓話。カバーイラストに描かれた場面が出てくる(裸の美女の誘惑)。話の後、聴き手のシャーリヤル王(第1巻の項を参照)が積極的な反応を示したのに驚いた。王は夜ごと物語を吹き込まれて、確実に教化されているのだ。シャーラザッド、恐るべし。
「水鳥と亀の物語」(第百四十八夜)
獰猛な鳥に嫌気がさした水鳥が、亀とともに島に移住する。
これはひどい話で、何の捻りもない唐突なオチで説教している。シャーリアル王もこんなしょうもない話を聞いて感心するなよ……。
「狼と狐の話」(第百四十八夜―第百五十夜)
日頃の暴力を恨んだ狐が、狼を人間の罠に誘導する。
狼と狐の化かし合いが楽しい。有利なときは威張ってるくせに、自分の立場が悪くなると、途端に卑屈な態度で命乞いをする。口調の変貌ぶりが笑える。
以下、挿話。
- 「はやぶさと鷓鴣」 - 1ページにも満たないどうってことない話。鷓鴣(しゃこ)がはやぶさに騙される。
「二十日鼠と猫いたちの話」(第百五十夜)
いたちが百姓の家にある胡麻の実を盗み、その罪を鼠になすりつける。
3ページの小品。利己的ないたちが残酷すぎる。
「猫と烏の話」(第百五十夜)
烏が猫の命を助ける。
2ページ弱の小品。思わず涙があふれ出る篤い友情の物語だった。例によってシャーリアル王は、こんな安い話で満足している……。
「狐と烏の話」(第百五十夜―第百五十二夜)
狐が烏に取り入ろうとする。
アラビアでは、狐はずる賢い動物とされているようだ。
以下、挿話。
- 「のみと二十日鼠」
- 「雌鷹と小鳥」
- 「雀と鷲」
「はり鼠とじゅずかけ鳩の話」(第百五十二夜)
はり鼠が鳩を利用して棗椰子をゲットする。
もう飽きてきたよ。
以下、挿話。
- 「商人とふたりのぺてん師」
「泥棒と猿の話」(第百五十二夜)
泥棒から盗品の布を買った男が、それを売って一儲けしようと企む。
どうってことない教訓話。
以下、挿話。
- 「馬鹿な機械工」
「雀と孔雀の話」(第百五十二夜―第百五十三夜)
鳥たちが孔雀を王に据える。
わくわく動物寓話シリーズはこれでお終い。「オマル・ビン・アル・ヌウマン王とふたりの息子シャルルカンとザウ・アル・マカンの物語」とは違う意味で疲労した。
「アリ・ビン・バッカルとシャムス・アル・ナハルの物語」(第百五十三夜―第百七十夜)
商人のもとで遊んでいたペルシャ王家の子孫が、店にやってきた美女に恋をする。その美女は、ハルン・アル・ラシッドの妾だった。
絶対権力者の妾に手を出して、無事に恋愛が成就されるのか。されるとしたら、どういう理屈で大団円になるのか。今回は大きすぎる障害が用意してあって、いつもよりは興味を惹くような設定だったと思う。
徹底的に記号化された、ハルン・アル・ラシッドの使い方が良い。各物語ごとに役割が違うから、全体を通して彼の存在に奥行きが出ている。あるときは気さくな王さまとして読み手を魅了し、またあるときは抑圧の装置として冷徹に機能している。
それにしても、アラビア人は感極まるとすぐ気絶するから大変だ。ハードボイルド小説の私立探偵並にバタバタ倒れまくっている。
2006.1.28 (Sat)
▽W・G・ゼーバルト『目眩まし』(1990)

★★★★
Schwindel. Gefuhle. / W.G. Sebald
鈴木仁子 訳 / 白水社 / 2005.11
ISBN 4-560-02730-7 【Amazon】
カフカネタが散りばめられた短編集。「ベール あるいは愛の面妖なことども」、「異国へ」、「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」、「帰郷」の4編。
ゼーバルト初の散文作品とのこと。この著者はデビュー時から「記憶」を巡る物語を綴っていたのだな。相変わらず「わたし」が各地を旅しながら、写真付きで対象人物の来歴みたいなものに触れている。今回はカフカやスタンダールなど、有名人が題材になっているということで、実作からの引用をはじめとした目配りが豊富(カフカの短編「狩人グラフス」が重要な役割を果たす)。文学部気質な人に受けるような内容になっている。
特に良かったのがユーモアを表に出していたところで、カフカそっくりの双子が出てくるくだりには思わず吹きだしてしまった(学者系の作家はカフカが好き過ぎる!)。ただでさえ不気味なのに、2人してくつくつ笑いしているのだから余計にインパクトがある。さらに、そんな彼らの写真を欲しがる語り手が……。ゼーバルトってけっこうお茶目な人だなと思った。
現実と幻想の境界が溶け合う文章にまどろみながらも、以前ほど感銘を受けなかったのは、先に読んだ『移民たち』が凄すぎたからかもしれない。今回は既成作家のネームバリューに負う部分がなきにしもあらずで、記憶の揺らぎについても「よくある話だよなあ」と首を傾げながら読んでしまった。デビュー作とは思えないほど文章の密度が高くて読み応えがあるのだけど、どうもこういう元ネタありきの話っていうのは、暗号解読を要求されているようでいまいち真面目に読めなかったりする。それと、対象人物との物理的距離が近かった『移民たち』には、もっと実演的な面白さがあったような気がして、ありていにいえば本作にはそれほど揺さぶられるものがなかった。個人的な問題で何だけど、『移民たち』をつい1ヶ月前に読んだばかりなので、どうしても2つを比較して色々考えてしまう(しかし、このペースって実は日本での翻訳出版と同じなんだよね)。
といっても、本作は決してつまらないわけではなく、それどころか単体ではいつも通りの幻惑的な語りが堪能できる。「記憶」へのアプローチも今回はストレートでとっつきやすい。後の作品のルーツとして興味深く読めたのだった。
以下、各短編について。
「ベール あるいは愛の面妖なことども」
アンリ・ベールこと、スタンダールについての記憶。
「異国へ」
語り手がイタリアへ旅行し、連続殺人事件について調べる。
「ドクター・Kのリーヴァ湯治旅」
カフカが国際会議に出席するためウィーンに向かう。その後はリーヴァの温泉治療所へ。
「帰郷」
語り手がチロル地方のW村に帰郷する。
2006.1.29 (Sun)
▲伊坂幸太郎『砂漠』(2005)

★★★
実業之日本社 / 2005.12
ISBN 4-408-53484-6 【Amazon】
大学生活を春夏秋冬ごとに区切って描いた青春小説。冷めた目線の語り手と、そのエキセントリックな友人たちが、街を騒がす連続空き巣事件に関わる。
超能力が使える女の子とか、無愛想な美女とか、サンボマスターみたいな青臭い言動の男とか、キャラクターがいつもの伊坂節。学内の様子もほどほどに、外での事件やら軋轢やら成長やらが語られる。大学生が主人公ということで、『三四郎』【Amazon】や『ノルウェイの森』【Amazon】なんかを思い出した。いかにも時間が余ってるって感じの自由な雰囲気が心地良い。麻雀に興じたり、合コンに参加したり、仲間内でつるんだりと、そのゆるゆるの生活にノスタルジーをおぼえる。また、主要人物の掛け合いも魅力的で、彼らの交流は読んでいて飽きることがない。
『魔王』に引き続いて、本作でも個人のモラリティの問題が顔を出している。世間の人間がつい妥協しがちな社会の矛盾に対し、善意の学生がドン・キホーテ的な直情さで大噴火。他者への不干渉を気取る個人主義と、不正に見て見ぬふりをするインチキな大人たちを糾弾している。
これはまあ、エキセントリック・キャラクターを用いることで、いわゆる「社会の常識」に一石を投じようとしているのだろう。ただ、今回は件のキャラがもろサンボマスターだったので、さすがに安直ではないかと引いてしまった。それと、主人公サイドが行う他者への批判が、自分たちの良識を保証するようにしか作用していないのも不満。何だか善意の人たちの立ち位置(あるいはセンスの良さ)を確保するために、諸々の平板な「悪」が槍玉に挙げられているようで、いまいち賛同しづらい。まだ『魔王』は心の内に葛藤があったから許せたけれど、本作の場合はただの気分(嫌悪感の表明)に終始しているため、彼らが唱える良識は、ただのファッションなのではと思えてしまう。市井の人間のモラリティとか、思想と実践の折り合いとか、この辺の処理は、たとえば『サウスバウンド』と比べてだいぶ見劣りがする。
仕掛けについては、あからさまな情報隠蔽の賜物という感じで、驚きにも興趣にも乏しかった。しかしながら、これが物語を演出していたことも確かなので、いちおうは許容できた。とりあえず、終わり方が奇麗だったと思う。あまり深く考えなければ面白く読めるかも。
2006.1.31 (Tue)
▲ヘルマン・ヘッセ『青春は美わし』(1916)
★★★
Schon Ist Die Jugend / Hermann Hesse
高橋健二 訳 / 新潮文庫 / 1954.10
ISBN 4-10-200104-2 【Amazon】
数年ぶりに帰郷した「私」ことヘルマン青年が失恋する。
失恋というと、喪失感やほろ苦さがつきまとうものだと思っていたので、本作みたいな清涼感と暖かさに満ちた小説を読んでびっくりした。告白しようとする「私」を制して、粋な提案をする相手女性の考えの深さが素晴らしい。確かに2人の状況は事実上の失恋なのだけれど、しかし通常のそれとは違って、何かを決定的に失うわけでもなく、むしろ今後の人生に好影響を与えそうなエネルギーが沸いている。花火に見送られるラストも、諸々の思いを通過点として引き受けるポジティブさが滲んでいて好感触。作品全体を哀愁入り混じる青春賛歌に染め上げている。本作の失恋は、考えられる限りでもっとも理想的な失恋の形だと思う。