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2006.12.11 (Mon)
▽青木淳悟『四十日と四十夜のメルヘン』(2005)

★★★★
新潮社 / 2005.2
ISBN 4-10-474101-9 【Amazon】
中編集。「四十日と四十夜のメルヘン」、「クレーターのほとりで」の2編。
「四十日と四十夜のメルヘン」
チラシ配りを生業としている語り手は、部屋に氾濫するチラシの裏に日記を書き付けている。で、その日記のうちの特定の4日間が、形を変えて10回繰り返されたり、構想中のメルヘンが語られたりする。
何の変哲もない日常をベースにしながらも、まるで迷路を行ったり来たりするようなぐるぐる感があって面白かった。これは何なのだろうなー。同じ日を反復するという出口のない語りは、毎回のように情報の濃淡が異なっていてへんてこ。記憶や考察といった生活の細部が幾重にも重なることで、幻惑的な空間が出来上がっている。スーパーでの買い物、チラシ配りの仕事、創作教室の思い出などなど、私小説っぽい語り手の話題は、目的も定かでないまま続いていく。
作中に出てくる『裸足の僧侶たち』(架空の小説)が気になる。『薔薇の名前』【Amazon】を模したこの小説は、羊皮紙の小片に書き付けられた手記の集積であり、7年間を7日間に凝縮してサンプリングするという大胆な加工がなされている。手法的に外枠である「四十日と四十夜のメルヘン」と対応していて、メタフィクションっぽい交錯の予感があるのだけど、だからといってこれがメインディッシュというわけでもなく、後半になって語り手の構想したメルヘンに駆逐されていく(上井草がひょっこり出てきたときは吃驚したぜ)。そして、やけに奇麗にまとまって幕を閉じる。
と、こんなふうに箇条書きのかたちでなら、ある程度作品の内容を引き出すことはできるのに、これらの要素から成り立っている物語の全貌となるとうまく思い描けない。部分から全体へというふうに理解が進まず、細部ばかりがところどころ鮮明に頭に浮かんできて、なぜか「勅令」なるものをくわしくおぼえていることに気づいた。(p.40)
上の引用は『裸足の僧侶たち』について語ったものだけど、実は本作もこんな感じの小説なのだった。こういうあからさまな説明って、愚昧なる読者へのサービスだったりするのだろうか? ともあれ、えらいへんてこな小説で面白かった。★★★★。
「クレーターのほとりで」
ネアンデルタールの女たちと、ホモサピエンスの男たちが共同生活を営む。
神話やら宗教やら歌謡やらがごた混ぜになったキッチュな世界観がしんどかった。こちらは飛ばし読みの誘惑に駆られる。通常の時系列で語られているから、表題作より読みやすいはずなのに……。
神話の語り直しかと思いきや、話は飛んでそれを相対化する視点が出てくる。カップリングのくせに相変わらず一筋縄ではいかない内容だった。★★★。
2006.12.15 (Fri)
▽マルセル・プルースト『失われた時を求めて 4 第二篇 花咲く乙女たちのかげに II』(1919)

★★★★
A la Recherche du Temps Perdu / Marcel Proust
鈴木道彦 訳 / 集英社文庫 / 2006.5 / ゴンクール賞
ISBN 4-08-761023-3 【Amazon】
バルベックに滞在中の語り手は、ゲルマント一族に遭遇して彼らと交際するようになる。その後間もなくして、今度は「花咲く乙女たち」なる美少女グループに遭遇、メンバーの1人アルベルチーヌに恋心を抱くようになる。
全13巻ある文庫版の4巻目。『失われた時を求めて 3』の続き。この巻は、「土地の名・土地」の残りを収録している。
ヴィルパリジ侯爵夫人、シャルリュス男爵、サン=ルー侯爵と、ついに語り手はゲルマント一族と接触する。ゲルマント一族といえばフランスに君臨するセレブ中のセレブであり、ユダヤ人が成り上がってできたスワン家とは対称的な存在だ。語り手はコンブレーに住んでいた幼年時代、ゲルマント公爵夫人にプラトニックな愛情を寄せ、彼女のお気に入りの作家になることを夢見ている。さて、今回出てきた3人は、社交界においてどのようなポジションにいるのか? この巻はまだ顔見せ程度といった感じで、その世界の内奥には踏み込んではいない。けれども、彼らのパーソナリティには興味深い傾向があって、これからの展開に期待が持てる。
特にツンデレのシャルリュス男爵は要チェックだろう。貴族らしいプライドを持った彼は、「男らしさ」に執着しながらも、同時に女らしい繊細な感性を身につけている。世間体を気にしているのか、表立っては語り手を軽視するような態度をとっているものの、しかしいざ周りの目がなくなると、途端にやさしい言葉をかけてくるのだから油断できない。とりわけ圧巻だったのは、軽率な応答をした語り手を叱りとばすシーケンスだ(p.168-9)。貸した本を一度は勢いよく取り上げたくせに、しばらく経ってから装丁付きで送ってくる男爵。この一事からして、彼はツンデレ以外の何者でもないと断言できる。
美少女6人によるグループ、「花咲く乙女たち」の登場は鮮烈だった。健康的な「美」を振りまく彼女たちは、正面から見据えるのが困難なくらい眩しくて、こんなピチピチの特権的乙女たちが、軟弱な語り手と懇意になるなんてあり得ないと思える。ところが、そこが創作の恐ろしさ。何と懇意になるばかりか、6人中2人が脈ありの反応を示すのである。アンドレにアルベルチーヌ、アルベルチーヌにアンドレ。かくして、失われた時を求めるはずのこの小説は、俄にギャルゲーっぽい雰囲気を覗かせるのであった。
>>『失われた時を求めて 5』に続く。
2006.12.18 (Mon)
▲ジャン=フィリップ・トゥーサン『逃げる』(2005)

★★★
Fuir / Jean-Philippe Toussaint
野崎歓 訳 / 集英社 / 2006.11 / メディシス賞
ISBN 4-08-773452-8 【Amazon】
『愛しあう』の前日譚。所用で上海に渡った男は、現地で合流した中国人の男女と共に、電車で北京へ移動する。夜の街でボーリングに興じる彼らだったが、事態が急変して「逃げる」ことになる。
ゴンクール賞の候補にもなったとのこと。わりと静かだった前作とは打って変わって、今回は非合法と思しき事件に巻き込まれている。
小説におけるプロットとは場面場面を繋ぐための装置であり、電車でたとえるなら駅と駅を結ぶレールのような存在だと思うのだけど(もっと良い比喩はないものか)、トゥーサンの場合はその役割が顕著のような気がする。つまり、場面転換がとてもロジカルということ。たとえば、女との濡れ場を描くために電車での移動があったり、北京の名所を取り込むためにバイクが持ち出されたり、この小説ではイメージを見せるために周到なお膳立てがなされている。
極めつけは、エルバ島での知人の事故死と、ボーリング場での事件の噴出だろう。突然の異常事態に直面した語り手は、中国から地中海へ渡ることになり、異国でのアバンチュールが強制的に終了してしまう。地球を半周するほどの、大胆な舞台転換を余儀なくされてしまう。この小説は全編「移動」で成り立っており、作品内の全ての出来事は、語り手をあちこちへ動かすために生成されている。
ただ、これだったら終末期の恋愛を描いた『愛しあう』のほうが、まだ面白かったかもしれない。というのも、『愛しあう』は男女間の心理の行く末に緊張感があったのに、本作は派手なプロットの割にその手のサスペンスが皆無なのである。まるでレールの上を走るテーマパークの乗り物といった趣で、今回は無機質にすぎるんじゃないかと思った。