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2007.2.11 (Sun)
▲飯嶋和一『神無き月十番目の夜』(1997)

★★★
小学館文庫 / 2005.12
ISBN 978-4094033144 【Amazon】
生瀬一揆を題材にした小説。村民300名が姿を消した事件の経緯を、1602年10月10日に照準を合わせて物語っていく。
高村薫みたいな骨太の小説で読み応えがあった。馬や農業についての詳細な記述、古典的な語彙を駆使した漢字率の高い紙面と、圧倒的な取材力を土台にした雰囲気作りが凄まじい。血の臭いを、「生臭いビタ銭のにおい」と表現するセンスからしてただ者じゃないと思う。また、当時の風俗を徹底的に調べたうえでの再現なのか、「小生瀬」という実在した村の特異性もあり得ないくらい凄い。独立独歩で開放的な気風を貫き、神域を中心とした昔ながらの素朴な生活を営む。山奥に位置する文字通りの村社会が、本作では一種のユートピアとして独自の存在感をもって描かれている。
支配者にとって女は子供を産む機械であり、百姓は年貢を納める機械である。少子高齢化の現代では前者が喫緊の課題になっているわけだけど、この小説の時代では後者のほうが遙かに重大事だった。年貢米(それも莫大な)を納めずに平然としている百姓は、統一して間もない国家にとって脅威以外の何ものでもなかった。徳川家の威信にかけて、逆らう奴はギッタギタのメッタメタにしなければらない。と、このような管理社会的な圧力が村に押し寄せてきて、そこで村民はどうするのか? この小説は各人のすれ違い・行き違いがとてももどかしく、のっぴきならない運命に向かう道筋には硬質な緊張感が備わっている。
蔵入れ地というところは、男も女も、老人も童もみな駄目だった。支配されることに慣れきった民は、誇りのかけらも持ちようを知らず、己より強い者には全く逆らえず、その分己より弱い者を卑下し、よってたかって他人の弱みをあげつらってしか生きられぬ心底貧しい者たちばかりだった。
ただ、「小生瀬=誇りある人々」、「蔵入れ地=卑屈な百姓の集まり」という図式はあまりに一面的で芸がないのではなかろうか。人情を解さない散文的な異人種によって、神域を抱えた古き良きユートピアが損なわれる。この小説は権力者に反抗する動機付けに事欠かない反面、善悪二元論の枠組み(小生瀬が理想化されすぎじゃないかね?)を一度も疑うことなく「悲劇」が押し進められていて、その確信犯的な作劇法に名状しがたい違和感をおぼえる。著者は宮崎アニメでも参考にしたのだろうかと思った。
2007.2.13 (Tue)
▲アブラハム・B・イェホシュア『エルサレムの秋』(1993)

★★★
Hasipurim / Abraham B. Yehoshua
母袋夏生 訳 / 河出書房新社 / 2006.11
ISBN 978-4309204673 【Amazon】
中編集。「詩人の絶え間なき沈黙」、「エルサレムの秋」の2編。
改行の多い低カロリーな語り口で、計測の難しいほのかな心の揺れを捉えている。「こういうのを書くのは女性か詩人のどちらかだろう」と思って訳者あとがきを捲ったら、その見当はまったく外れていた。著者はエルサレム生まれの男性で、小説のほかには政治エッセイを書いているだけのようである。
ところで、河出書房新社のModern & Classicって、新潮クレスト・ブックスが想定しているのよりも、さらにセンシティブな読者を想定しているような気がする。この路線はなかなか貴重なのではなかろうか。
以下、各中編について。
「詩人の絶え間なき沈黙」
年老いた詩人が知的障害の息子と2人暮らしをする。詩人はしばらく前から筆を折り、息子は学校で要領を得ない生活を送っていたが……。
一歩引いたような淡泊な親子関係が目を惹いたかな。愛情をかけなければ憎悪を募らせることもない、ただ産まれてしまったから手元に置いているような暮らしぶり。詩情の枯れた父は依然として沈黙を貫き、境界上を彷徨う息子は17歳でやっと小学校を卒業する。
後半の展開は、やっぱり詩人の血を受け継いでいるんだねって感じで、一条の光が射し込んできたような気分になった。最後の最後で詩人を襲う、ささやかな驚きがたまらなく良いと思う。★★★★。
「エルサレムの秋」
エルサレムに住む男性は未だ5年前の恋を引きずっていた。その彼が懸想していた女性の子供を3日間だけ預かることになる。
おいおい、何だこりゃ。今となっては好きな女と直接触れ合えることなんて出来ないから、彼女の遺伝子を受け継いだ子供に色々干渉して楽しんでいる。そのうえ、子供が39度の熱を出しているというのに、何の処置もとらないばかりかにんまり喜んでさえいる。はっきり言って異常心理の犯罪者予備軍としか思えないのだけど、ただそれが案外憎めないのだから小説って面白いと思う。男がマヌケなのは全世界共通のようだ。★★★。
2007.2.16 (Fri)
▲法月綸太郎『法月綸太郎ミステリー塾 国内編 名探偵は何故時代から逃れられないのか』(2007)

★★★
講談社 / 2007.1
ISBN 978-406213786 【Amazon】
評論集。エラリー・クイーンを論じた「大量死と密室」、島田荘司を論じた「挑発する皮膚」を柱に、国内ミステリの文庫解説などを収録している。
一口に言えば、犯罪のゲーム化ということになるだろう。八三年には、任天堂が「ファミリーコンピュータ」を発売、ゲーム的な疑似現実(虚構)があっという間に日本全国を覆い尽くすと、「虚構の時代」に即した本格ミステリ形式の優位性が、だれの目にも明らかになっていく。(p.14)
『複雑な殺人芸術』の項も参照。笠井潔の「大量死論」もそうだったけれど、本書は全体的な傾向として、作家の内面(および作品の性質)と社会的トピックを接続するロジックが、あまりに牽強付会で説得力を欠いている(*1)。といっても、『ABC殺人事件』【Amazon】をはじめとする作品分析はどれも一級品だから、決して著者の読解力が低いわけではない。むしろ、プロパーな評論家よりも目のつけどころが鋭い向きがあって、余計な吹かしさえなければ完成度は上がったろうにと思う。
そういうわけで、本書は論全体で善し悪しを判断するのではなく、部分部分の煌めきをすくい上げて自分の糧にすべきなのだろう。そのサンプルとして、たとえば以下は『九尾の猫』【Amazon】について論じた部分。
むろん、"猫暴動"は、クイーンの想像力の産物である。自警団の出現、それによって誘発されたパニックと凄惨な市民暴動をめぐる一連の描写から、第二次大戦でも直接の戦渦を免れたアメリカ本土を、ペンの力で戦場にしようとする作家の意図を読み取ることはたやすい。(p.63)
これ以外にも、『九尾の猫』が名前に拘っていることを看破するなど、ツボを押さえた指摘が散見できて刺激がある。著者は地力充分なのだから、言葉遊びしかしていない現代思想界隈には近づかないほうがいいと思う。