2007.3b / Pulp Literature

2007.3.11 (Sun)

ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』(1951)

シルトの岸辺(99x140)

★★★
Le Rivage des Syrtes / Julien Gracq
安藤元雄 訳 / ちくま文庫 / 2003.10 / ゴンクール賞
ISBN 978-4480038777 【Amazon

架空の国オルセンナとその敵国ファルゲスタンは、300年もの間、国交も戦闘もない暗黙の冷戦状態にあった。オルセンナの前線、シルトの城塞に赴任してきた監察将校が、宿命に操られてその均衡を破ることになる。

ゴンクール賞を辞退したことで有名な寓意的小説。架空の国と言いながらも世界観はヨーロッパと繋がっていて、我々の住む世界の固有名詞がちらほら登場している。作品の雰囲気はわりとがっちりめで、「詩的散文体」と評される、比喩をふんだんに用いた文章は確かに美しい。こういう本を読むと、実は作家よりも翻訳家のほうが、日本語運用能力が高いのではと思ってしまう。

オルセンナとファルゲスタンは戦争中にもかかわらず、何世代にも亘って儀礼的無関心を貫いてきた。両国がそれぞれ危機を放置することで、実質的な平穏状態を保っていたのである。ところが、そんな奇妙なバランスも、監察将校の赴任をきっかけに崩れていく。彼が余計な好奇心を発揮したせいで、事態は後戻りのきかないところまで進んでしまう。きな臭い噂を撒き散らしたり、船で境界を越えてしまったり、個人個人が破滅に向けて動いていく様子は、まるで「国家」が自分の四肢を操っているかのよう。個人の持つ「必然と自由の割合」を考えさせるという意味で、『戦争と平和』【Amazon】の歴史観を思い出した。

ただ正直いって、訳者あとがきで言及されていた『タタール人の砂漠』【Amazon】のほうが、本作よりも断然面白そうである。イタリアの作家ブッツァーティによるこの小説は、辺境の砦で30年間敵を待ち続ける話で、カフカ的な不条理を描いているのだという。確か『夷狄を待ちながら』の元ネタでもあるはずだ。

2007.3.14 (Wed)

ロバート・トゥーイ『物しか書けなかった物書き』(1964-)

物しか書けなかった物書き(108x160)

★★★
The Man Who Could Only Write Things and Other Stories / Robert Twohy
法月綸太郎 編 / 河出書房新社 / 2007.2
ISBN 978-4309801032 【Amazon

日本オリジナル編集の短編集。「お決まりの捜査」、「階段はこわい」、「そこは空気も澄んで」、「物しか書けなかった物書き」、「拳銃つかい」、「支払い期日が過ぎて」、「家の中の馬」、「いやしい街を…」、「ハリウッド万歳」、「墓場から出て」、「予定変更」、「犯罪の傑作」、「八百長」、「オーハイで朝食を」の14編。

ユーモラスな短編もちらほら混じっているけれど、本領は「負け組」にスポットを当てたシリアスな短編にあるようだ。意外と振り幅が大きくてびっくりする。

以下、各短編について。気に入った短編には末尾に☆をつけた(14編中4編につけた)。

「お決まりの捜査」(1964)"Routine Investigation"

遺体の検分を巡って、巡査と未亡人が噛み合わない会話を繰り広げる。そして……。

未亡人が道理に合わない主張を繰りかえしていたので、キチガイ相手の巡査も大変だなあと同情していたら、それを逆手にとったような凄いオチが待ち受けていた。特に最後の一行には、異世界に一歩踏み込んだような絶妙なインパクトがある。☆。

「階段はこわい」(1964)"The Victin of Coincidence"

4人の妻を4度とも変死で亡くした男。警部補が殺人を疑うも、男は偶然を主張する。

「浴槽の花嫁」パターンから軽妙に捻っている。スタンド使いはスタンド使い同士引かれ合うものなのだ。☆。

「そこは空気も澄んで」(1969)"Up Where the Air Is Clean"

叔父に連れられた青年がマフィアのボスから頼み事をされる。

前2作とは打って変わったシリアスな話。どの組織でも下っ端はつらいけれど、とりわけマフィアだと使い捨て要員にされるからやりきれない。いわゆる「鉄砲玉」である。

「物しか書けなかった物書き」(1974)"The Man Who Could Only Write Things"

物を実体化する能力を得た物書きが、生活の糧にすべく売買可能な物を書いていく。

能力には色々制約があって、直接お金を生み出すことはできないという。あっけなく、記号的に人を殺すところはジャック・リッチーっぽい。そう、『女房の殺し方教えます』【Amazon】の例を引くまでもなく、いつだって夫は妻を殺したがっている……。

「拳銃つかい」(1978)"The Pistoleer"

依頼を受けたプロの殺し屋が、いつも通り準備を整えてターゲットに近づく。

傍から見るとアホらしいけれど、本人にとっては深刻なコンプレックスで殺人にまで発展してしまう。くわばらくわばら。ラストのやりとりが哀しいね、ホッグフェイス。☆。

「支払い期日が過ぎて」(1978)"Installment Past Due"

ジョーク大好き男が活躍する連作その1。債務者相手に手の込んだいたずらを仕掛ける。

ほのぼのとしていて良い。嫁さんも冗談の分かる奴だし。

「家の中の馬」(1979)"The Horse in the House"

ジョーク大好き男が活躍する連作その2。1日に6枚も違反切符をきられたので、持ち前の機知を使って警察に復讐する。

言葉の綾を利用した悪戯だけど、これって普通に公務執行妨害になるような。

「いやしい街を…」(1980)"Down This Mean Street"

ハードボイルド小説の主人公が、アル中の作者の仕打ちに抵抗する。

楽しい楽しいメタフィクション。ただのドタバタ劇で終わるのかと思ったら、物語は意外な方向に転がった。小説世界の人物がみなボール紙の人形なのが笑える。インチキ弁護士、ヤク中、悪徳警官と、必要に応じてペンキで塗りわけているとか。

「ハリウッド万歳」(1980)"Hooray for Hollywood"

映画俳優が謎の美女と知り合ったことで危険な陰謀に巻き込まれる。

まるでハリウッド映画のような目まぐるしいアクションが続いていく。これを読んで、漫☆画太郎の某短編(『画太郎先生ありがとう』【Amazon】所収)を思い出したのは私だけではないだろう。あれも本気度高かったからなあ……。

「墓場から出て」(1980)"Bottomed Out"

射殺されて棺桶の中にいた男が現世に甦る。

成功なんて夢のまた夢。元俳優がかつての栄華を取り戻そうとゼロからスタートする。

「予定変更」(1979)"A Change in the Program"

ヒッチハイクしてきた男は実は死人だった。

うーん、不条理だ。☆。

「犯罪の傑作」(1980)"A Masterpiece of Crime"

殺人犯が警察に挑戦状を送ってくる。どうやら実在の小説を踏まえた反抗らしい。

メタフィクションというよりは、内輪ネタといったほうが相応しいかな。

「八百長」(1981)"The Fix"

元タクシー運転手が競馬の八百長で一稼ぎしようとする。

社会の底辺を切り取ったシリアスな短編。金持ちがやるギャンブルは地位に応じた嗜みって感じがするけれど、貧乏人がやるギャンブルは生活がかかってるからやりきれない。

「オーハイで朝食を」(1984)"Breakfast at Ojai"

自動車事故で死んだ夫婦には秘密があった。

ロスマクっぽい内容。謎が明かされると同時に、女の倒錯した欲望が露わになる。

2007.3.17 (Sat)

ヤスミナ・カドラ『カブールの燕たち』(2002)

カブールの燕たち(111x160)

★★
Les Hirondelles de Kaboul / Yasmina Khadra
香川由利子 訳 / 早川書房 / 2007.2
ISBN 978-4152087973 【Amazon

タリバーンが統治するアフガニスタンの首都カブール。病気の妻を抱える看守と、財産を失ったインテリ夫婦が、思わぬ場所で交錯する。

著者はアルジェリアの元将校で、現在はフランスに亡命しているとのこと。本作はフランス語作品。J・M・クッツェーやアーザル・ナフィーシーらが絶賛しているそうだ。

しっかし、いくら仕事とはいえ、クッツェーさんもこんな下らない本をよく褒めたなあ。『サフラン・キッチン』もそうだったけれど、中東を書きたがる外部の作家たちは、根本的に小説というメディアを勘違いしているとしか思えない。目的が手段を正当化するというか、イスラム社会の抑圧を描きたいばかりに、ときに通俗的な無理筋を用いて小説世界を安っぽくしている。

たとえば、『サフラン・キッチン』ではヒロインにとって都合の良い(そして明らかに扇情的な)、ハーレクィンの文法が幅を効かせていた。同様に、本作では「美女」を巡る身も蓋もないヒロイズムが後半を彩っている。そもそも本作の登場人物たちって、イスラム社会から切り取ったスタンダードなサンプルなのだろうか。体制側の抑圧によって、皆が皆人間的な心持ちを失ってしまう。焦点となった人物の内面があまりに平板なため、申し訳ないが西洋的な自我の投影としか思えなかった。特殊な地域を舞台にすると、どうしても固有名詞に引きずられてしまうので、これだったらまだ架空の国にしたほうが傷は浅かったろうにと思う。

それにしても、本作をアフガニスタンの人たちが読んだらどう思うのか気になるところだ。外部の人間は当事者の意見を代弁できない(見る側によって都合良く変形される)というのがクッツェーの文学観だけど、本作はそれとは真っ向から対立しているように思える。人間性の剥奪を描きたいがために、わざと極端な異常者を持ち出しているのではないか。「アフガニスタンの人なんてこんなもんですよ」って言われたら納得するしかないけれど、まさかそんなことは……。

タリバーン統治下の閉塞状況はわりと新鮮だったかもしれない。我々がニュースでしか知らない惨状に、血肉がついたような感覚は確かにある。

>>Author - ヤスミナ・カドラ

2007.3.20 (Tue)

クリシュナ・バルデーオ・ヴァイド『ビールーの少年時代』(1957)

★★★★
Usaka bacapana / Krsna Baladeva Vaida
長崎広子 訳 / 財団法人大同生命国際文化基金 / 2006.10
ISBN なし (非売品)

ビールー少年の家は食べ物も満足に得られないほど貧しく、嫁姑・夫婦の間ではいざこざが絶えなかった。罵声と暴力と貧困が渦を巻く、少年のうらぶれた生活を描く。

著者はパキスタン生まれのインド人で、使用言語はヒンディー語。本作は『パディ・クラーク ハハハ』のインド版みたいな小説だった。潤いに欠ける底辺層の日常を、少年の瑞々しい感性で捉えていく。出口のない貧困に悩む姿は時に気が滅入りそうになるけれど、しかしそこには同情や共感を誘うような上目遣いの重苦しさはない。それどころか、「母ちゃん」の存在が凄まじくて一種の喜劇性さえ感じさせる。『豊乳肥臀』といい、『小さきものたちの神』といい、女が強いのは万国共通なのだろう。姑との間では海兵隊の訓練基地以上の罵声が飛び交い、夫との間ではバーリトゥードの試合以上の暴力が吹き荒れる。少女時代から何年もこき使われてきた「母ちゃん」は、今更へこたれてたまるかという感じで、愛するビールーを前に延々と悪態をつき続けるのだ。普通だったら目をそむけたくなるようなどん詰まりの生活。それを軽々と読ませるところが好ましいと思う。