2007.5b / Pulp Literature

2007.5.13 (Sun)

大江健三郎『さようなら、私の本よ!』(2005)

さようなら、私の本よ!(114x160)

★★★
講談社 / 2005.9
ISBN 978-4062131124 【Amazon
ISBN 978-4062138048 【Amazon】 (特装版)

怪我から回復した古義人が、幼馴染みの建築家と共に軽井沢に移住する。そこで古義人は建築家によるテロ計画に巻き込まれる。

武とタケチャンのどちらかが、爆破作業で死ぬ。……二人死ぬことになれば最悪のケースだ。(……)その時、生き残った方は、死んだ片割れがそれまで自分でしたこと、見たり聞いたりしたこと、読んだことの全部を引き継ぐ。そのようにして死んだ片割れの代りに生き始めることにしよう! (p.458)

『憂い顔の童子』の続編にして3部作の最終作。T・S・エリオットの詩やドストエフスキーの『悪霊』【Amazon】、三島由紀夫のクーデターなどが織り込まれている。吾良(伊丹十三)の自殺から始まった3部作は、未来に開かれた老人小説として無事大団円を迎えたというわけだ。著者の旧作にはまったく手をつけていなかったので、作家人生を総括する部分は正直いってピンとこなかった。けれども、テロリズムに関する諸々のテキストが、談論や事件を通して『取り替え子』の思想に回帰する、そのダイナミズムが面白くて読後感はかなり良かった。著者の真骨頂は、主題に応じてテキストを組み合わせる自在な応用力にあるのだなと思う。この辺、『海辺のカフカ』を書いた村上春樹に似ているかもしれない。

長江さんの社会的発言が政治思想というに価するとは……御当人を前にして失礼ですが、思ってなかった。(p.207)

ところで、一連の3部作では作中に自己弁護を散りばめたり、妻子を神秘的な奇才のように描いたり、要するに「裸の王さま」的な自己言及を繰り広げていたのだけど、今回登場人物の口を借りて自分(に限りなく近い存在)のことを上記のように評していて思わず唸ってしまった。この著者はただの勘違い爺ではなかったのだ! いやはや、国際的作家恐るべし、である。

2007.5.15 (Tue)

カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』(1963)

猫のゆりかご(112x160)

★★★★
Cat's Cradle / Kurt Vonnegut, Jr.
伊藤典夫 訳 / ハヤカワ文庫 / 1998.6
ISBN 978-4150103538 【Amazon

ボコノン教を奉じる作家がまだキリスト教徒だったころの話。原爆の父とその家族を取材していくうちに、世界に終末をもたらすとある秘密を知ることになる。

「文学による慰めをうばわれたら、人はどんなふうに死ぬと思いますか?」
「心臓が腐るか、神経系が萎縮するか、そのどちらかだろうね」(p.238)

これを読んで思い出したのが、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)【Amazon】で、あの映画も終末兵器をネタにしたアイロニカルな話だった(原爆投下さえギャグになっていた)。『猫のゆりかご』は1963年の作品だけど、ちょうどこの頃のアメリカはキューバ危機の後だったから、「世界の終り」がリアルな体験として存在していたのだと思う。で、本作はそういう暗鬱な状況をユーモアとアイロニーで相対化することで、世界の成り立ちが理性的ではない、それどころか人間の営為に意味はないという認識の透明化を促したのではなかろうか。「民主主義に殉じた百人の兵士」は結局は無駄死にだったし、人類も笑っちゃうほどアホらしい動機で滅亡しちゃうしね。ボコノン教の緩い箴言に耳を傾けつつ、ボコマルで孤独と虚無を癒す。深刻さを背景にした「軽さ」が好ましいと思う。