Page Topics
2007.7.12 (Thu)
▼ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』(2000)

★★
White Teeth / Zadie Smith
小竹由美子 訳 / 新潮クレスト・ブックス / 2001.6
ISBN 978-4105900236 【Amazon】
ISBN 978-4105900243 【Amazon】
多文化、多人種が入り乱れる20世紀のロンドン。イギリス人のアーチーと移民のサマードは、第2次大戦以来の親友だった。2人の友情を軸に、子供たちの代の騒動をユーモラスに描いていく。
70年代生まれの移民2世による、新世代ポスト・コロニアル小説。過去と現在を自在に往復しながら、移民たちが抱える葛藤に焦点を当てていく。ジャマイカ系やユダヤ系など人種がごちゃごちゃしている様子は新鮮だったけれど、肝心のストーリーテリングがいまいちで、特に中盤以降はだらだらしていてつまらなかった。どうも大長編志向の女性作家って、細かいエピソードを手厚く描く反面、緻密なストーリーを組み立てる意識に乏しいような気がする。
イスラム原理主義や動物愛護団体など、偏った思想による不穏な活動が表面化しながらも、出自の違う移民たちは概ね平和に共存している。人種の混交というのは今では珍しいものではないけれど、それが現代のロンドン、すなわちかつての帝国主義の中心地で進んでいるところに意味があるのだろう。アイデンティティをめぐって葛藤する移民がいる一方で、人種の違いを気にしないアーチーみたいなイギリス人もいる。自分のルーツを継承させようとバングラディッシュに送り返した息子が、イギリスナイズされて帰ってくるという皮肉からして、そういうのに悩むのは些末なことのように思える。極東の部外者からすると、ハイブリットにハイブリットを重ねて、新しいしきたりを創っていくほうが建設的ではないかと言いたくなる。まあ、そう簡単に割り切れないから苦労してるのだろうけど。
何かあまりに他人事なので適当になってました。結局なるようにしかならないよね。
2007.7.16 (Mon)
▽マルセル・プルースト『失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女 I』(1925)

★★★★
A la Recherche du Temps Perdu / Marcel Proust
鈴木道彦 訳 / 集英社文庫 / 2007.1
ISBN 978-4087610284 【Amazon】
語り手とアルベルチーヌがパリで同棲生活を始める。語り手の目的はアルベルチーヌをゴモラの世界から引き離すことだった。語り手は日々疑惑の目を向けるも、彼女はなかなか尻尾を出さない。
私はアルベルチーヌを神秘的な鳥のように見なしていたからこそ、また次には多くの人の欲望の対象であり、ことによるとすでにだれかの物になっているのかもしれない近辺の大女優と見なしたからこそ、彼女をすばらしいと感じたのだった。どこから来たかも分からない鴎のような乙女たちの群れに囲まれて、ある夕べ、ゆったりと堤防を歩いていた一羽の鳥、そのアルベルチーヌもひとたびわが家に囚われの身となると、その色彩をことごとく失うとともに、私以外の人たちの物となるいっさいの可能性を喪失した。こうして彼女は少しずつその美を失っていった。(p.328)
全13巻ある文庫版の9巻目。『失われた時を求めて 8』の続き。嫉妬は愛を増幅させるということで、語り手はアルベルチーヌをレズビアンの群れから隔離する。こうしておけばダンスの最中に乳房をくっつけ合うことはおろか、自分の与り知らぬところで密会するのも難しくなる。プライベートをがっちり握って情事を防ごうという算段だ。しかし、いったん支配欲を満たしてしまうと残るのは倦怠のみである。語り手は嫉妬に苛まれながらも囚われの女に倦怠をおぼえていて、その微妙な心理の揺れがこの巻で事細かに語られていく。
嫉妬とは多くの場合、恋にかんするもろもろのことにかんして暴君的に支配したいという不安な欲求にほかならない。(p.173)
ここまで読んできて興味深いのは、語り手をはじめとした恋する男たちが、一様に嫉妬に取り憑かれているところだ。オデットに傾倒したスワンは嫉妬を燃料として恋の炎を燃え上がらせていたし(2巻)、モレルに惚れ込んだシャルリュス男爵も嫉妬が高じて「偽りの決闘」を起こしていた(8巻)。「愛するものを所有することは、愛そのものよりも大きな歓喜を与える」(p.99-100)とはシャルリュスを評した言葉だけど、ちょうどこの格言は語り手やスワンにも当てはまっている。男というのは女本体にのめり込むのではない。嫉妬が生んだ幻影にのめり込むのだ。まったく男ってやつあどうしようもない生き物である。
>>『失われた時を求めて 10』に続く。
2007.7.19 (Thu)
▲川端康成『古都』(1962)
★★★
新潮文庫 / 1968.8
ISBN 978-4101001210 【Amazon】
舞台は京都。商家の娘・千重子が、生き別れの双子の姉妹・苗子と再会する。千重子は苗子を家に誘うも彼女は頑なに拒む。そして……。
方言は活字にすると嘘臭くなると思うのは気のせいだろうか。広島弁に博多弁、名古屋弁にズーズー弁と日本に点在する個性豊かな方言たち。しかし、とりわけこの「嘘臭い」傾向は関西弁において顕著であり、エッセイやコラムを読んでもその手の違和感が付きまとう。
というわけで、この小説も登場人物の話す端正な京都弁が、自己満足のコスチュームプレイのように見えていまいち真面目に受けとれなかった。いや、生で聴く京都弁は実にセクシーだし、女の子に京都弁で言い寄られたら鼻の下を伸ばすこと請け合いだけれども、これが活字になると一転して生気を失ってしまう。果たして音声の有無の問題なのか、それとも単に慣れの問題なのか。いずれにせよ、読みづらいから勘弁してほしいと思ったくらいセリフには馴染めなかった。
結局のところ、双子の片割れが「幻」のような存在だったのと同様、この小説で描かれた京都も、「古都」という川端の美意識を形象化した理想の街だったのだろう。列挙法で着物の名前を連ねたり、随所に京都独特の固有名詞を散りばめたり、そういう作為が完璧な方言の使用と相俟って幽玄な小世界を形作っている。「美しい日本」のなかの「美しい都」京都。昭和中期の京都はこんな情趣に溢れた街だったのだろうか。現代人の私からすればまるで時代劇の世界を覗いているようで、この「古都」が実像(京都人の最大公約数的イメージ)とどの程度ギャップがあるのか、是非とも京都人の感想を知りたいと思った。
それにしても、終盤の百合展開には参った。双子を同衾させるなんて川端やるじゃんと思う。それと、ある意味で必然的な恋愛の帰結も双子小説的にはおいしい。