2007.10c / Pulp Literature

2007.10.21 (Sun)

安部公房『水中都市・デンドロカカリヤ』(1949-)

水中都市・デンドロカカリヤ (新潮文庫)(111x160)

★★★
新潮文庫 / 1973.7
ISBN 978-4101121079 【Amazon

短編集。「デンドロカカリヤ」、「手」、「飢えた皮膚」、「詩人の生涯」、「空中楼閣」、「闖入者」、「ノアの方舟」、「プルートーのわな」、「水中都市」、「鉄砲屋」、「イソップの裁判」の11編。

以下、各短編について。

「デンドロカカリヤ」(1949)

コモン君がデンドロカカリヤになった話。

植物化の兆候に晒されたコモン君、女文字の手紙に釣られて喫茶店に行ったら、出てきたのはむさ苦しい男だった。付き合ってられんということで、彼は半ギレ気味でその場を立ち去ってしまう。ところが、手紙を媒介にして2人は再会。男は政府の保証をちらつかせて植物園への入居を勧めてくる。それは敗北への序曲だった。

コモン君は『神曲』やギリシャ神話に当たることで、植物化には何か意味があるのではないかと考える。自分を襲った不条理に対し、理性の刃で抵抗を試みる。しかし、その行為ははじめから無駄だった。なぜなら、彼の受難は寓話ではなく現象なのだから、元々意味なんてなかったのである。「デンドロカカリヤ」、それはコモン君がデンドロカカリヤになった話。顔面が裏返しになったら要注意だぜ。★★★★。

「手」(1951)

戦争中に伝書鳩として活躍した語り手が、「手」によって作り替えられる。

おれは今、「平和の鳩」の像である。おれは明確な意味をもち、意味それ自体ではあるが、しかし、おれは単純におれ自身でおれであることは出来ないのだ。簡単に言えば、おれを支えてくれる者の行為によってのみ、おれは存在しうるのだ。(p.65)

誰もが唯一の存在ではいられない。伝書鳩だった語り手は、内蔵を抜かれて「平和の鳩」に作り替えられる。同時に「手」の主も、鳩班の兵隊から見世物小屋の演者に変貌する。主従関係の両者は、共に国家の道具として働いてきた。しかし、「手」の主は国家に翻弄され、不幸な末路を迎えることになる。さらに、弾丸と化した語り手も、主の死によって最後の変形を遂げることになる。

その存在が社会にとって都合の良いように規定され、挙げ句の果てには道具のように使い捨てられる。権力という得体の知れない存在への、恐怖を垣間見せる作品だった。★★★。

「飢えた皮膚」(1951)

餓えた男が木矛夫人に復讐する。その復讐とは、架空の病気をでっちあげて彼女をアヘン中毒にすることだった。

衣裳は皮膚の代用であり、社会が複雑になればなるほどその種類は増えていく。我々は衣裳によって階級を表現しているわけだ。男がでっちあげた<保護色人種>は、そんな秩序を紊乱するような存在である。皮膚の色がその都度周囲に同化すれば、自分の階級だって不変ではいられない。人間は見た目が一番ということで、<保護色人種>になることは、社会からドロップアウトすることに等しい。下層階級の男は、上流階級の夫人を陥れるために、変身の恐怖を吹き込んでいる。★★★。

「詩人の生涯」(1951)

ユーキッタン、ユーキッタン。39歳の老婆が、糸車を踏むうちにジャケツに編み込まれてしまう。

戦前の貧しい時期をモデルにした、童話っぽい内容。いつもの奇想が発揮されながらも、芯の部分で格差社会のメカニズムを捉えている。★★★。

「空中楼閣」(1951)

無職の男が電柱に貼られたビラを見て、空中楼閣建設事務所に就職しようとする。

ビラには電話番号も住所もなく、男はただひたすら連絡を待つことに。待てども待てども現れない、男の妄想を綴った話かと思いきや、ひょんなことから物語は動いていく。証言者によって、存在自体が変わる空中楼閣。猫に導かれて……というのが村上春樹っぽい。『ねじまき鳥クロニクル』の導入部は、おそらくこれを参考にしているのだろう。★★★。

「闖入者」(1951)

男のアパートに見知らぬ一家が闖入、民主主義を振りかざして部屋を占拠する。

民主主義を揶揄した短編。場所を巡る争いというテーマは、ハロルド・ピンターの十八番だったけれど、ここまでストレートに切り込んでいるのはなかったような気がする。どちらかというと、星新一や筒井康隆に近いか。作品を覆う不条理感は一級品で、段々と希望を剥ぎ取られていく様子が胸に迫ってくる。一家はとんでもないスキルを持っていて、男は抵抗もままならないのだ。この弱肉強食ぶりが恐ろしい。★★★★。

「ノアの方舟」(1952)

恐怖政治で村を支配するノア。予定では、サタン様がエウフラテス河を氾濫させるはずだったが……。

「人間というものは、ある程度どうしても死ななければならん。君たちも知っとるように、一定数の死が、宇宙の調和を保っているのだ。私はそれを調節しなければならない。沢山の役目をもった者は、そういう点にまで気をくばらなければいかんのだから、えらいこっちゃよ。分るかね?」(p.196)

神の暇つぶしのために人間が創られた、という視点はサブカルでよく見かける。出典はこれか? ★★★。

「プルートーのわな」(1952)

オルフォイスとオイリディケはねずみの夫婦。夫は不思議な歌でもって危険を回避している。ある日、ねずみ共和国の大統領に選出されるも、まもなく猫のプルートーに住処を見つけられてしまった。共和国は安全保障のため、彼と交渉することになる。

神話の語り直し。日米安保条約を皮肉った短編だという。オルフォイスはプルートーとの妥協はあり得ないと主張していた。ところが、他のねずみたちは怯えてしまってそれを支持しない。全員でかかれば勝てるだけの戦力はあったのに、まるで闘う気力を見せない。で、結局は交渉することになり、神話よろしく悲劇に見舞われる。いやはや、どうしようもないね。★★★。

「水中都市」(1952)

一人暮らしの男の前に、父親を名乗る男が現れる。父親は焼酎を飲んで人食い魚に変身、さらに街が水没してその中を泳ぎ回ることになる。

突然現れてアパートに住みつき、突然変身してこちらの生命を脅かす。父親の暴走。街は首のなくなった人間で溢れている。みんな魚どもに噛み切られたのだ。魚を除去するには水をなくすしかないのだけど、政府は彼らの増殖を望んでいてどうにもならない。安部小説の主人公は、自己であれ他者であれ、変身の暴力によって人間性の危機に直面する。★★★★。

「鉄砲屋」(1952)

離島の後進国にヘリコプターが着陸、中から列強のカラバス人が出てくる。

このカラバス人はマッカーサーがモデルか? 赤が大嫌いで、夕陽を見るのすら嫌だという。カラバス人は自由主義の名のもとに、後進国を騙して搾取するのだった。

「あのヘリコプターは“くまん蜂”というちゃんとした自分の名前を持っているんですから、ぜひそう呼ぶようにしていただきたい。こまかいことを言うようですが、これは思想上の問題ですからな。私有財産を擁護するわれわれの自由主義者は、あらゆる物の個性を尊重する。とりわけ所有関係にもとづく個性をはっきり示すためにね。“赤”の国に行くと、名詞は全部一般名詞だけになり、人間も名前なんかもっていないそうですぜ、共産制だから、人間は人間であれば、それ以上の区別なんか必要ないっていうわけなんでしょうな。」(p.287-8)

名づけることはすなわち支配することである。そういえば、『十五少年漂流記』では、少年たちが無人島に「チェアマン島」と名づけていた。★★★。

「イソップの裁判」(1952)

都市国家時代のデルフォイ。イソップという実体のない存在の身代わりとして、教師のプリストスが引き立てられる。

偽史的な想像力を駆使したイソップ秘話。プリストスはイソップじゃないのにイソップとして裁かれる。秩序維持のための生贄、受刑者の交換可能性が示唆される。★★★。

2007.10.23 (Tue)

アントニア・ホワイト『五月の霜』(1933)

五月の霜 [lettres] (lettres)(107x160)

★★★★
Frost in May / Antonia White
北條文緒 訳 / みすず書房 / 2007.10
ISBN 978-4622073307 【Amazon

9歳の少女ナンダ・グレイが、リッピントンにあるカトリックの寄宿女学校に入学する。彼女は1年前に改宗したばかりだった。信仰心はますます篤くなるも、学校の管理教育に嫌気がさすようになる。

カトリックの抑圧を描いたスクールストーリー。アンドレ・ジッドが書きそうな題材で面白かった。厳しい学園生活を通して、友情や信仰心を育んでいく。

修道女に支配された学校は、まるで監獄のような徹底した監視体制を敷いている。誕生日にプレゼントをあげるのは駄目だし、2人きりで話をするのも御法度。手紙と小包はすべて検閲の対象だし、異教徒の書物を読むなんてもってのほかだ。もちろん、日常生活はカトリックの厳しい戒律に基づいており、信仰にそぐわないあらゆる習慣は強制的に排除されている。信仰心を試すために床に落ちたパンを食べさせたり、神に全てを委ねさせるために自律的な意志を摘み取ったり、その教育方法たるやまるで軍隊のよう。少女たちを型に押し込んで自由を奪っている。

科学の本は女性にふさわしくない。生半可にしかわかっていない思想で虚栄心を膨張させている。もし科学が宗教と矛盾するなら、当然のこととして科学が間違っているにちがいない。エデンの園はおそらく神話だが、本質的な点においては真実。聖書に書かれた創造の順序は近代科学者たちによってさえ実証されている。(p.139-40)

女性の参政権は不必要。女性は自分の領域のなかで自分の大きな影響力を発揮すればよい。謙虚さは輝こうという欲望より効果的。聖母マリアは参政権をもたず、またもつことを望まれなかった。(p.141)

ナンダはプロテスタントから改宗したばかりであり、それがゆえにカトリックを我が物にしようと躍起になっている。上記は「瞑想」と称したナンダの覚え書きだけど、こんな偏った見解を当たり前のように叩き込まれるのだから恐ろしい。しかも、たゆまぬ洗脳教育によって、彼女はカトリックに依存するようになってしまった。人の弱みにつけ込んで、無垢な心を支配するカトリックの手口。人間性を剥奪する宗教というものに、ますます不信感が募った。

2007.10.25 (Thu)

ドリス・レッシング『夕映えの道』(1983)

夕映えの道−よき隣人の日記(111x160)

★★★
The Diary of a Good Neighbour / Doris Lessing
篠田綾子 訳 / 集英社 / 2003.9
ISBN 978-4087733945 【Amazon

夫を亡くした初老のキャリアウーマンが、ひょんなことから貧しい老婆の部屋に出入りするようになる。はじめは心を閉ざしていた老婆だったが、何度も通ううちに信頼が芽生えてくる。

ジャンナは女性雑誌の編集者で、オーダーメイドの服を着こなすいわゆる「できる女」。子供のいない彼女は充実した仕事ライフを送っていたものの、身内の死によって己の身勝手さに直面することになる。一方のモーディーは、90を超えた貧しい老婆。手の付けられないほどの頑固者で、足腰が立たないくせに施設へ入りたがらない。取り壊し間近のオンボロアパートで、1人糞尿にまみれて生活している。普通だったらまず顔を合わせないジャンナとモーディー。この小説は2人の異文化コミュニケーションを通して、「老い」を中心とした人生の諸問題を浮かび上がらせている。

ジャンナには職場の人間関係があり、同僚のプライベートが理由で変化を迫られている。モーディーには親族をめぐる悲しい過去があり、それが老境の現在まで尾を引いている。分量のわりに厚みを感じるのは、個々の人間の捉え方がしっかりしているからだろう。

たとえば、同僚のジョイスが孤独を恐れて不本意な選択をするのに対し、老女のモーディーは徹底して孤独であろうとしている。作者の筆は2人の判断に善悪をつけず、ただジャンナを取り巻く人生の諸相として描いている。また、可哀想なモーディーは最後まで聖別されることはない。死を目前にしても自分の意志に固執し、「受容」という期待されたプロセスを経ないまま息絶えている。並のドラマだったら、ここで愁嘆場を演じて「泣かせ」に入るところだろう。しかし、本作のジャンナはとても冷静だ。安易に取り乱したりはせず、他者の死をあくまで他者の死として受け止めている。

というわけで、偽善も偽悪もない、著者の距離感が印象的だった。

2007.10.27 (Sat)

マック・セネット『チャップリンの醜女の深情』(1914/米)

チャップリンの醜女の深情(113x160)

★★★
Tillie's Punctured Romance
マリー・ドレスラー / チャールズ・チャップリン / メーベル・ノーマンド / マック・スウェイン
アイ・ヴィー・シー 【Amazon

詐欺師の男(チャールズ・チャップリン)が農夫の娘(マリー・ドレスラー)を誘惑して駆け落ちさせる。現金を巻き上げて一時はトンズラこいたものの、彼女に遺産が転がり込むやすかさず結婚を申し込む。

アメリカ映画初の長編コメディ。邦題に反してチャップリンは助演。元々は舞台で有名だった作品らしく、映画化にあたって主演のマリー・ドレスラーをそのまま引っ張ってきている。

終盤の派手なアクションより、中盤までの地味なパントマイムのほうが面白かった。警官を避けようとよたよた歩くところとか、ステッキを気ぜわしげに振り回すところとか、チャップリンの何気ない細密な動きが楽しい。相手は体躯に物をいわせた大雑把な存在なので、余計に彼の細かさが際立っている。

終盤はマリー・ドレスラーが拳銃を持ち出して大暴れ。発砲しながらチャップリンを追い回したり、車に撥ねられて海に転落したり、古き良きドタバタアクションを繰り広げている。

劇伴が軽快なピアノ曲だったのが良かった。同じサイレントでも、ヒッチコック映画は有名な管弦楽曲をメドレーしていて物足りなかったので……。その点、本作は映像と音楽がしっかりマッチしていて好ましい。何という曲なのか気になるところだ。

2007.10.29 (Mon)

米澤穂信『遠まわりする雛』(2007)

遠まわりする雛(110x160)

★★★
角川書店 / 2007.10
ISBN 978-4048738118 【Amazon

連作短編集。「やるべきことなら手短に」、「大罪を犯す」、「正体見たり」、「心あたりのある者は」、「あきましておめでとう」、「手作りチョコレート事件」、「遠まわりする雛」の7編。

『クドリャフカの順番』に続く古典部シリーズ4作目。日常の謎を通して、人間関係の綾を明るみに出している。今回は長編3作の隙間や前後を埋めるという趣向。高校1年の1学期から春休みまでを描いている。

古典部の4人は、嫉妬や性欲の介在しないドライな関係で結ばれている。表面的には屈託がなく、距離も適切で関係も良好なのだけど、実は特殊な拘りに根ざした綻びが隠れている。つまり、自意識と人間関係のバランスに苦労しているのだ。ラストでは恋愛のきざしが見えていて、今後の展開が楽しみになってくる。

以下、各短編について。

「やるべきことなら手短に」

教室に残って課題の作文を書く奉太郎。そこへ友人の里志が、「学校の七不思議」の話を持ってくる。さらに、名家のお嬢さま千反田が加わって、3人で校内を探索することになるが……。

のっけからほろ苦い内容。自らの拘りを貫くべく、リスキーな手段を用いている。才覚を頼んで関係性をコントロールしようという傲慢さ。奉太郎は典型的な中二病だと思う。

「大罪を犯す」

隣りのクラスで千反田が数学教師に対して怒った。その教師は勘違いからまだ教えていない分野を問題に出し、答えられない生徒を罵倒していたのだった。

「なぜ、教師は勘違いしたのか」という謎。そして、普段怒らない千反田が、はじめて怒ったことによる古典部の興味。前者は納得のトリックで面白かったけれど、後者は奉太郎の結論がありきたりで小粒だった。ま、繋ぎの短編ということで。

「正体見たり」

古典部の4人が、夏合宿のため山間の温泉地へ。旅館で首吊りの幽霊を目撃する。

これは傑作ではなかろうか。手に入らないものへの哀惜。事件を通して、ロマンチックな千反田の幻想にひびが入ってしまう。本書の良さは、このように謎解きから一捻りあるところだろう。

「心あたりのある者は」

名探偵・奉太郎が、放課後の校内放送からめくるめく推理を展開する。

ミステリ作家だったら誰でも1度は書くようなパロディ作品。こじつけとしか思えない論理で、校内放送の目的を探っていく。

「あきましておめでとう」

正月。奉太郎と千反田が神社の納屋に閉じこめられた。納屋には窓がないうえ扉は外からの閂式。千反田の社会的立場上、大声を出して助けを呼ぶことができず、そこで奉太郎が知恵を絞ることになる。

視点の切り替えがすれ違いを演出していてまあまあ面白かった。

「手作りチョコレート事件」

2月14日。伊原が里志に手作りチョコを渡そうとするも、千反田が席を外した隙に盗まれてしまう。

これも最初の短編同様ほろ苦い。しかも、その苦さをチョコレートの味と絡める周到さ! 冗談好きな里志は、悩みがなさそうで実は相当病んでいる。

それにしても、奉太郎といい里志といい、男性陣は自分で決めたモットーに縛られすぎだと思う。キャラはあくまでキャラでしかいられないのだろうか。

「遠まわりする雛」

4月の春休み。千反田に頼まれた奉太郎が、神社の雛祭りを手伝うことになる。祭りの準備に忙しい大人たちだったが、直前になって連絡の不備が発覚。生き雛の行列は遠まわりすることになった。どうやら誰かの妨害があったようだが……。

これは良いねえ。どこか浮世離れしていた千反田の決意。名家の跡取りである彼女には、地域社会に対して多大な責任があるわけだ。将来を見据えた本作は、締めにふさわしい上質の青春小説だった。

>>Author - 米澤穂信