2008.1c / Pulp Literature

2008.1.22 (Tue)

アイリス・マードック『海よ、海』(1978)

海よ、海(103x160)

★★★
The Sea, the Sea / Iris Murdoch
蛭川久康 訳 / 集英社 / 1982.11 / ブッカー賞
ISBN 978-0099284093 【Amazon】(原書)

かつて演劇界に身を置いていたチャールズ・アロビー。60を過ぎた彼は海辺の屋敷に隠遁し、回想録の執筆を始めていた。ある日、偶然お馴染みのハートレーと再会。彼女はチャールズが唯一真剣な愛を捧げた相手だった。妄執に取り憑かれたチャールズは、寄ってくる愛人たちをあしらいつつ、人妻ハートレーに執着する。

翻訳本は上下巻二段組で、合わせて580ページほどある。絶版のうえにISBNがついてないため、書影とリンクは原書のもので代用した。

引退した老人が回想録を書くという出だしだったので てっきり華やかな現役時代が中心になるのかと思っていた。ところが、隠遁生活の真っ只中に現在進行形の愛憎劇が割り込んできて、気が付いたらそれがメインになっている。さんざん気を持たせておいてそっちに行くのか! みたいな人を食った筋運び。回想録を書くという自意識を常に露出させることで、読者を適度に振り回している。

現在進行形の話とはいえ、結局は過去の因縁の清算なので、若き日のこともわりと語られている。60過ぎまで独身を貫いたチャールズは、40年前、愛するハートレーと離ればなれになってしまった。以来、チャールズは演劇界に入って乱れた女性関係を結び、それが現在まで尾を引くことになる。彼の愛情は自己中心的で、相手の都合なんていっさいお構いなし。身から出た錆というのか、現在では嫉妬に駆られた愛人2人に頭を悩ませている。

人妻のハートレーはチャールズを迷惑がっていたのだけど、それは疑い深いDV夫を怖れてのことだった。チャールズは2人の夫婦関係が上手くいっていないと判断、嫌がるハートレーを執拗に追い回し、ついには屋敷に連れ込んで監禁までしている。ヒステリーを起こすハートレーに、自分と暮らすよう説得するチャールズ。堆積した時間の重みが分からないチャールズは、ハートレーを不幸と断定してエゴイスティックな愛情を押しつけ、それがもとで取り返しのつかない悲劇を引き起こしている。

良くいえば純愛、悪くいえば妄執。要するにチャールズはストーカーであり、彼に執着する2人の愛人も同様である。この小説はチャールズがいかにして妄執から解放されるのか、その精神の軌跡を寓意や象徴、さらには哲学を交えて描いている。一筋縄ではいかないと思うのは、終盤で巨大な謎が投下されるところで、何と東洋の神秘主義を持ち出してリアリズムの枠をぐらつかせている。果たしてある人物をめぐる推測は真実なのか、それとも虚像に過ぎないのか? この<神秘>を踏まえたラスト一段落は、かなり人を食っていてドキリとさせられる。

生まれながらの従僕と称して屋敷に居候するギルバート。チャールズへの嫉妬が高じて彼の乗る車を襲撃するロージー。戦時中に捕虜を虐殺して勲章を貰ったハートレーの夫。チャールズのほかにも癖のある人物が揃っていて、彼らの不穏な動きも見逃せない。錯綜する情念によって、濃密な劇的空間ができあがっている。

2008.1.25 (Fri)

スティーヴン・ミルハウザー『ナイフ投げ師』(1998)

ナイフ投げ師(113x160,7739byte)

★★★★
The Knife Thrower / Steven Millhauser
柴田元幸 訳 / 白水社 / 2008.1
ISBN 978-4560092033 【Amazon

短編集。「ナイフ投げ師」、「ある訪問」、「夜の姉妹団」、「出口」、「空飛ぶ絨毯」、「新自動人形劇場」、「月の光」、「協会の夢」、「気球飛行、一八七〇年」、「パラダイス・パーク」、「カスパー・ハウザーは語る」、「私たちの町の地下室の下」の12編。

以下、各短編について。気に入った短編には末尾に☆をつけた(12編中7編につけた)。

「ナイフ投げ師」"The Knife Thrower"

ナイフ投げ師の公演。淡々と凄腕を披露するナイフ投げ師だったが、その内容は耽美なものへとエスカレートしていく。

ナイフ投げというと、クリント・イーストウッドの映画『ブロンコ・ビリー』【Amazon】を思い出す。といっても、あちらは即物的な催しものだったのに対し、こちらは独自のマニエリズムを展開している。言うまでもなく、このナイフ投げ師は吸血鬼の隠喩だ。会場は現実から切り離された耽美な空間としてテンションが高められていく。本当にやったんだろなあと思わせつつ、形式上は真相をぼかしているところが心憎い。☆。

「ある訪問」"A Visit"

数年ぶりに旧友に会うべく田舎へ。彼はとんでもない嫁をもらっていた。

ミルハウザーというと、現実の地平上に驚異を構築するイメージがあったので、このあからさまな<驚異>の出現には驚いた。「かえるくん、東京を救う」を連想する(我ながら安直だ)。

「夜の姉妹団」"The Sisterhood of Night"

12〜15歳の少女たちが、夜な夜な集っていかがわしいことをしているという。複数人の証言によって町に憶測が流れる。

姉妹団は夜中にコンビニでたむろしているような非行集団ではなく、もっとイノセントで神秘的なイメージ。沈黙の掟によって匿名性が守られており、具体的な活動内容も知られていない。今回の騒動は、姉妹団から除名された女子高生の告白から始まる……。

人は信じたいものを信じ込むということで、証言が出れば出るほど混乱していくのが面白い。個人的には百合っぽいのを期待するけれど、やはり語り手の解釈が一番奇麗でしっくりくる。何せ、この本を手に取るような層と親和性の高い、デリケートな動機だし。☆。

「出口」"The Way Out"

不倫の現場を押さえられた男。その場は何事もなく立ち去ったものの、翌朝、謎の2人組が訪問してくる。

これから何が起きるのだろうとワクワクしながら読んだ。案の定、予想外な展開でショックを与えてくれる。ミルハウザーって細部の描写にセンスがあって良い。それと、心理・行動・風景の絶妙なバランスも。まさか! と思わせておいて本当にやっちゃうラストは余韻がある。

慇懃な2人組が何かのシステムに組み込まれているようで不気味。思えば、この時点で不吉な運命を決定付けられていた。不倫男は奇妙な要求から逃れられない。☆。

「空飛ぶ絨毯」"Flying Carpets"

少年時代に空飛ぶ絨毯で遊んだ話。

読者からすれば尋常じゃない遊びなのに、語り手にとっては一時のブームに過ぎないのが良い。地下室に埃を被って放置されてるなんて、随分と映像志向だなと思う。☆。

「新自動人形劇場」"The New Automaton Theater"

老若男女を魅了する自動人形劇場。市民たちは、人間のあらゆる動きを再現する自動人形に惚れ込んでいた。ある名匠が人形芸術に革新の風を吹かせるが……。

「ナイフ投げ師」、「夜の姉妹団」、そして本作は、語り手が名も無き群衆の1人で、異能の人たちを遠くから静かに眺めることで共通している。名匠の凄さっていうのは、やはり等身大の視線で照射されるからこそのものだろう。自動人形というアナクロな世界に引き込まれる。

人形芸術の潮流の変化は、美術、文学、音楽とあらゆる芸術に置き換え可能で、よくある芸術受容のパロディになっている。☆。

「月の光」"Clair de Lune"

15歳になった夏。眠れない少年が月明かりのなか外出する。そして、幻想的な体験をする。

月明かりの世界といった感じの小品。

「協会の夢」"The Dream of the Consortium"

協会が地上19階地下4階の百貨店を開店させる。

ライバルの上を行こう、二十世紀最後の十年において偉大なる百貨店の消え去りし栄光を取り戻そうという、気高い、熱い欲求に貫かれたこの新しい百貨店にあっては、何を買うことも可能なのだ。石英管式ストーブ、動力芝刈り機、ヴェネツィアの大建築、電気鉛筆削り、スコットランドの城、十チャンネル・オートスキャン機能付コードレス電話、飛び梁、マルチトラクター、新石器時代の村、アルミ製羽目板、サルゴン二世の宮殿、エリー運河、蝋人形館、水中用排水ポンプ、シュメールの聖塔、椰子の木が生え波が打ち寄せる島、古代トロイア、電動式車椅子、バイキングの埋葬塚、コルドバのメスキータ、潟湖、スフィンクス、エクササイクル、黒い革製リクライニングチェア、野牛の線画が描かれた上部旧石器時代の洞窟、三舞台のサーカス、ロードス島の巨像、テンジクボダイジュの聖堂、コカコーラ瓶詰め工場、ミュートスコープ、ズームレンズ、城塞街、アフリカのダイヤモンド鉱山、ベネディクト会の修道院、アイスクリームメーカー、アレクサンドリアの図書館、ズアーヴ兵の軍服、オペラ劇場、五段変速穿孔盤、クラヴィチェンバロ、フィルムノワールの舞台装置、蜃気楼の浮かぶ砂漠、綿繰り機、円錐帽、蒸気沸き立つアマゾンのジャングル、カモメの飛び交う古い桟橋。(p.172-3)

男の子の夢想を具現化した話で面白い。思えば子供の頃、百貨店はディズニーランドに匹敵するほどの賑やかなテーマパークだった。1日で回りきれないフロアには無限の可能性が詰まっていた。毎週日曜日、買い物に連れて行ってもらうのを楽しみにしてたっけ。その時の純粋な感激が甦ってくる。☆。

「気球飛行、一八七〇年」"Balloon Flight, 1870"

プロイセン軍に包囲されたパリ。語り手と操縦士がレジスタンスを組織すべく気球で脱出する。

「パラダイス・パーク」"Paradise Park"

1912年。叩き上げの支配人が、究極の遊園地作りに邁進する。

『マーティン・ドレスラーの夢』の遊園地版。支配人の経歴がほとんど同じなのは狙ってたんだろうか。

娯楽産業の世界にあっては、利益が成功の尺度となる。だが同時に、もっと形の見えにくい尺度もそこにはある。評価、風望、名声などと呼んでもいいかもしれないが、要するにそれは、個的な夢想を公的な事実にすることに世間が同意してくれるかの度合にほかならない。(p.225-6)

初めのうちはその先鋭ぶりが大衆に受けていたものの、ある新趣向をきっかけに利益と夢想のバランスが崩れていく。この場合の夢想とは快楽の追求であり、支配人にとっては芸術に他ならない。大衆の支持を得られない芸術家ほど孤独なものはないだろう。遊園地がどんどん過激化し、膨らみきった風船のように破裂する。その興亡の様子に得難い想像力を感じる。

ただ、この題材はそろそろ飽きてきたかな。既に発表した作品の焼き直しとしか思えない。それなりに満足感はあるのだけど。☆。

「カスパー・ハウザーは語る」"Kasper Hauser Speaks"

ニュルンベルグの紳士淑女に向けたスピーチ。

まあ、いくら頑張っても溶け込めないわけだし、結果的には失う物のほうが多かったんだなあ、とそんな印象。端正な語りだからこそ孤独が浮き彫りになる。

「私たちの町の地下室の下」"Beneath the Cellars of Our Town"

町のずっと地下には通路が張り巡らされていた。

地下世界にロマンを感じない人間なんていないだろう。通路の存在を擁護する<私たち>が微笑ましい。

2008.1.28 (Mon)

イアン・R・マクラウド『夏の涯ての島』(1991-)

夏の涯ての島(112x160)

★★★
The Summer Isles and Other Stories / Ian R. Macleod
浅倉久志・他 訳 / 早川書房 / 2008.1
ISBN 978-4152088871 【Amazon

日本オリジナル編集の短編集。「帰還」、「わが家のサッカーボール」、「チョップ・ガール」、「ドレイクの方程式に新しい光を」、「夏の涯ての島」、「転落のイザベル」、「息吹き苔」の7編。

著者は叙情SFの書き手として有名らしい。特殊な舞台設定のなかで普遍的な人間性を描いている。どちらかというと、派手なエモーションで揺さぶるタイプではなく、うっすらと情感を滲ませるタイプ。地味めのしんみりとした短編が多かった。

以下、各短編について。

「帰還」(1992)"Returning"

事象の地平を落ち続ける宇宙飛行士。彼は並行世界の別の地球に繰り返し帰還していた。宇宙飛行士には前回までの帰還の記憶はなく、その都度デジャヴュをおぼえる。

あらすじを書くのが難しいのだけど、要するにループする男の悲哀を描いた話だ。幽霊みたいな宇宙飛行士は家族と溝ができていて、それも実は体験済みだという。最近『電脳コイル』【Amazon】を観たせいか、ヴァーチャル物質とか言われるとSF魂が刺激される。

冒頭を変奏するラストは分かっていても感慨深い。★★★★。

「わが家のサッカーボール」(1991)"The Family Football"

人類が自由に変身できる世界。母がミツユビナマケモノになって理性を失ってしまった。

特殊な状況下での人間ドラマが上手い。ヘビになったり象になったり、変身が当たり前の世界観に重要な意味があるわけだ。普段は犬なのに、母が病気になったときだけ人間に戻る祖父が良い。★★★。

「チョップ・ガール」(1999)"The Chop Girl"

第二次大戦中の空軍基地。持ち前の悪運で兵士たちを死に追いやってきたチョップ・ガールが、持ち前の幸運で戦場を生き抜いてきたパイロットに恋をする。

パイロットには不思議な力が備わっているようで、それを一途に観察するチョップ・ガールの眼差しがスリリングだ。好意は持っていても悪運を自覚しているから積極的に近づけない。2人のほんの僅かの邂逅は、あたかもセピア色の写真のようで、その場限りの生を感じる。渋めのジャズが似合いそうな短編。世界幻想文学大賞。★★★★。

「ドレイクの方程式に新しい光を」(2001)"New Light on the Drake Equation"

ドラッグを飲んで自己実現が可能になった社会。時代遅れとなったSETIを未だ追い続ける老人が、学生時代の恋人と再会する。

SFファン向けのくすぐりが散りばめられているけれど、特にSFには思い入れがないので。だいたいSFオタってあれだろ? 好きな作家はフィリップ・K・ディックとか言ったら鼻で笑うような連中だろ? ★★★。

「夏の涯ての島」(1998)"The Summer Isles"

第一次大戦でドイツが勝利し、イギリスが全体主義国家になった世界。ゲイの歴史学者が首相の招待を受ける。2人は訳ありの関係だった。

歴史改変小説。若き日の思い出が意外な形で現在に繋がる。歴史の闇に呑み込まれた男と、歴史の傍観者に過ぎない男。どちらも運命をコントロールすることができず、手を伸ばしても届かないもどかしさがある。世界幻想文学大賞。★★★。

「転落のイザベル」(2001)"Isabel of the Fall"

<一〇〇〇一の世界>が舞台。<夜明けの教会>で反射鏡を磨きをしていたイザベルが、<言葉の大聖堂>で養蜂係をするゲニアと出会う。

いかにしてこの国にある変革が訪れたのか? という遠い昔の物語。光塔と反射鏡による光いっぱいのヴィジュアルが面白い。

<夜明けの教会>に勤める者は人為的に盲目にされるのだけど、イザベルだけはどさくさに紛れて免れた。反射鏡磨きにミスがあったことから、偶然ゲニアと知り合い、さらには悲劇に見舞われる。テクノロジーが発達した世界ならではの懲罰が恐ろしい。★★★。

「息吹き苔」(2002)"Breathmoss"

<一〇〇〇一の世界>が舞台。女だらけの共同体で暮らすジャリラが漁師の少年と出会う。男を見るのはそれが初めてだった。

成長もの。濃厚な世界観のわりにドラマが普通すぎていまいち。★★。

2008.1.31 (Thu)

V・S・ナイポール『暗い河』(1979)

暗い河(107x160)

★★★★
A Bend in the River / V.S. Naipaul
小野寺健 訳 / TBSブリタニカ / 1981.1
ISBN 978-0330487146 【Amazon】(原書)

アフリカ東海岸。ムスリムの商家に生まれた青年サリムは、自分の将来に不安を抱いていた。その彼が運命を切り開くべく、内陸部へ移住して小さな商店を開く。やがて地元では黒人の反乱が勃発。軍隊によって鎮圧された後、サリムは旧友繋がりで政府開発区に出入りするようになる。

われわれのあいだでも、他の人間とくらべると自分だけは何の用意もできていない、何か道を探さなければならないという気持ちがひろがっていた。だが、この思いは誰も同じだった。自分の人生だけが不安定に見え、他人が英雄に見えたのである。だがすべてがでたらめで、法律も当てにならなくなったこの町では、誰の人生も不安定だったのだ。(p.266)

コンゴ民主共和国の首都キサンガニをモデルに、第三世界の駄目っぷりとそこで暮らす個人の無力さを描いている。語り手が新天地で危機に見舞われるという枠組みや、文明の欺瞞を鮮やかに切り出す手並みなど、エッセンスとしては最近翻訳された『魔法の種』(2004)に近い。

作家として脂の乗った時期に書かれた本作は、初期作品に見られたユーモアは影を潜めていて、不正と暴動に揺れる暗い現実を活写している。道を歩けば役人が賄賂を要求してくるアフリカ。カーストの純潔に引きこもっただらしのない国インド。そして、逃亡者の集積地としてのロンドン。インド系移民は確固とした居場所を作ることができず、まるで沈没船に乗ったような危うい生活を送っている。どうやら第三世界の混沌を辛辣に暴き出すのが著者の真骨頂のようで、ノーベル賞を受賞したのも何となく理解できる。

この世界では誰の人生も不安定であり、黒人も白人も、そして民衆も役人も、等しく転落の危機を孕んでいる。暴動によって財産を失った良家の子弟インダーは、外国からの特使として颯爽と登場するも、すぐに立場の脆さを露呈させる。大統領の恩師レイモンドは、利用された挙げ句に今では干されているし、店を格安で譲ってくれたナズルディンは、移住先のカナダで手痛い詐欺に遭った。顧客の息子ファーディナントは地方長官に就任するも、政局によってはいつ処刑されるか分からない。そして、一夜にして無一文になる共産化の波……。いかにして高値で売り抜けるかがこの世界の鉄則であり、もたもたしていると泥沼にはまりこんでしまう。暗黒大陸アフリカは、20世紀後半になっても暗黒のままだった。そんなことを強く感じさせる小説だった。

>>Author - V・S・ナイポール