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2008.11.15 (Sat)
▲レーモン・クノー『あなたまかせのお話』(1981)

★★★
Contes et propos / Raymond Queneau
塩塚秀一郎 訳 / 国書刊行会 / 2008.10
ISBN 978-4336048424 【Amazon】
短編集。「運命」、「その時精神は……」、「ささやかな名声」、「パニック」、「何某という名の若きフランス人 I、II」、「ディノ」、「森のはずれで」、「通りすがりに」、「アリス、フランスに行く」、「フランスのカフェ」、「血も凍る恐怖」、「トロイの馬」、「エミール・ボーウェン著『カクテルの本』の序文」、「(鎮静剤の正しい使い方について)I、II」、「加法の空気力学的特性に関する若干の簡潔なる考察」、「パリ近郊のよもやまばなし」、「言葉のあや」、「あなたまかせのお話」、「夢の話をたっぷりと」の19編。
著者の死後に編纂された小品集。さすが『文体練習』【Amazon】の作者だけあって、人を食ったようなヘンテコな話が多かった。文章は明快でとても読みやすいのだけど、内容はどこか定石を外していて収まりが悪い。どれもはっきりした“狙い”が分からず、見知らぬ場所に置いてけぼりを食わされたような感覚がある。
日本語版では、附録として「レーモン・クノーとの対話」(1962)を収録。内容は文芸ジャーナリストとのラジオ対談で、ウリポ(潜在文学工房)を創設して間もない時期の、クノーの言語観・文学観を知ることができる。
以下、各短編について。気に入った短編には末尾に☆をつけた(19編中4編につけた)。
「運命」(1922)"Destinee"
勉強に疲れた男が自分探しの旅に出る。三大陸を回った彼はある結論に達するのだった。
「俺の意思と富はさまざまなものをもたらしてくれた。俺は自分の運命を導いてきたが、今、俺の意思は自分自身に阻まれている。だからこれからは俺自身が物事に支配されたい! まわりの状況に翻弄されてみたいのだ!」(p.12-3)
何て贅沢な! というツッコミ以外に言うことがない。
「その時精神は……」(1929)"Losque l'esprit..."
宇宙の成り立ちをトンデモ理論で語っている。月という観念は洋梨型だとか、太陽という概念は卵の形だとか。
シュールすぎて訳分からん。小説というよりは詩に近いかも。
「ささやかな名声」(1979)"La Petite Gloire"
著述家のM・Gは、自分の名前を後世にまで伝えたいと願っていた。彼は国立図書館で学者に近づき、自分のことを研究してもらうようにする。
気の利いた笑い話だった。雲散霧消のラストは思わず脱力する。
「パニック」(1939)"Panique"
中年男がホテルの部屋を借りる。長期滞在の上客に思えたが、所々で奇妙な行動をとる。
この客はひとことで言えば「変人」かな。何を考えているのかさっぱり分からないし、分からないまま話が終わってしまう。もう完全に置いてけぼり。平穏な世界にささやかな波紋を投げかけている。☆。
「何某という名の若きフランス人 I、II」(1936)"Un jeune Francais nomme Untel, I, II."
何某という名の若きフランス人を主人公にした連作。(1) すかんぴんの何某が、通りすがりの老人から押し込み強盗するよう勧められる。(2) タクシーに乗った何某が、相乗りした2人組の財布紛失事件に関わる。
何か微妙にシュールな話だった。ガシッ、ボカッ、スイーツ(笑)みたいな超展開。これがおフランス流のユーモアなんだろうか。
「ディノ」(1942)"Dino"
男が旅先でディノという透明な犬と出会う。
キレのあるオチだった。現実か妄想かは分からず終いだけど、犬の存在が男の心理とリンクするのが良い。☆。
「森のはずれで」(1947)"A la limite de la foret"
代議士が宿に泊まる。そこにはディノという人語を話す犬がいた。
これからというところで話が終わっている。どうやら長編の出だしらしい。幻想的なガジェットがちらほら出てくる。
「通りすがりに」(1944)"En passant"
戯曲。地下鉄の通路を歩く男女が、乞食と通行人を巻き込んで不条理な会話を繰り広げる。
変奏曲みたいな構成。似たようなシチュエーションを2つ並べ、それぞれ微妙に違った曲を奏でている。筋が通ってるんだか通ってないんだか分からない会話が刺激的だった。☆。
「アリス、フランスに行く」(1945)"Alice en France"
旅行中のアリスが、労働者風の男に話しかけられる。
『不思議の国のアリス』を踏まえた奇怪な話。これもいまいち意味が分からない。最後の言葉遊びは何だったのだろう……。
「フランスのカフェ」(1947)"Le cafe de la France"
25年ぶりに街に帰ってきた男が、カフェ・ル・アーヴルを訪ねる。
私は申し訳ないが詩人なのだ。廃墟、売春、愚行、これらはいつでも詩人の心を慰めてくれる。(p.140-1)
著者にしては珍しくシリアスな内容だった。ナルシシズムすれすれの叙情が味わえる。
「血も凍る恐怖」(1947)"Une trouille verte"
語り手が感じる恐怖の気配。
幻想とシュールの狭間みたいな短編。言葉遊びしているらしい。とりあえず、恐怖の気配は伝わってくる。
「トロイの馬」(1948)"Le Cheval troyen"
酒場で会話する男女。そこに割り込んでくる馬。彼はトロイ出身だった。
馬が醸し出す異物感が最高。基本的には人間と変わらないのだけど、ほんの些細なことで感情を害している。同化しているようで同化しきれていない、微妙な食い違いが面白い。☆。
「エミール・ボーウェン著『カクテルの本』の序文」(1949)"Preface au ≪Livre de Cocktails≫ d'Emile Bauwens"
タイトル通りの序文。カクテルがどうのと馬がしゃべっている。
馬は何も言わなかったが、脇腹の皮に細かく不吉な皺がよっていた。(p.164)
「トロイの馬」もそうだったけど、こういう何気ない表現が可笑しい。
「(鎮静剤の正しい使い方について)I、II」(1979)"(Du bon emploi des tranquillisants), I, II"
鎮静剤をオチに使った小品を2つ並べている。
どちらもショートコントみたいだった。普通につまらない。
「加法の空気力学的特性に関する若干の簡潔なる考察」(1950)"Quelques remarques sommaires relatives aux proprietes aerodynamiques de l'addition"
数学に関する屁理屈を述べている。
だから何? としか言いようがない。
「パリ近郊のよもやまばなし」(1962)"Conversations dans le department de la Seine"
パリ近郊で採取した会話の断片を切り貼りしている。
パノラマっぽい広がりがあってけっこう良いかも。実験小説のわりには内実を伴っている。
「言葉のあや」(1963)"Facons de parler"
メラノピージュとアリステネートの会話。語源について屁理屈を言う。
例によって軽い言葉遊び。こういうのっていかにもおフランスっぽいね。
「あなたまかせのお話」(1967)"Un conte a votre facon"
三つの元気なお豆さんの話を聞きたいかい? (Y/N)
選択肢によって読むべきパラグラフが変わっていく。どうやらゲームブックの先駆けみたい。
「夢の話をたっぷりと」(1973)"Des recits de reves a foison"
複数の夢を並べたような内容。
ラストに仕掛けがあるのだけど、この記述もいまいち信用できないという。まあ、昔の前衛ってこんなものなのかな。
レーモン・クノーとの対話
1962年に放送された、文芸ジャーナリスト(ジョルジュ・シャルボニエ)とのラジオ対談。分量は約100ページで、自身の言語観・文学観を惜しみなく披露している。
以下、気になる発言をメモ。まずは言語の線形性について。
それから、言語活動は時間の中ですきまなく一直線に展開していくものです。それぞれの語は書き言葉でも話し言葉でも前後に並んでいるが、横に並べられたらと思うこともある。(p.211-2)
そう、マラルメが『書物』という本においてやろうとしたのはそういうことなのです。この作品は断片しか残されていませんが。『骰子一擲』における試みも同様で、言語活動の線形性から脱しようとしている。言語の線形性はきわめて束縛が強く、話の可能性を狭めてしまうので、実際には意図と異なる話をしてしまうことさえあるのです。(p.212)
大枠として言語への不信があって、そのなかに線形性の問題がある。こういうのってSFで扱いそうな題材だなあ。線形性を排した言語って宇宙人にぴったりだと思う。
続いては文学を見分ける基準について。
基準があるとは思いませんね。そのための……何と言えばいいのか……秘密すらありません。むしろ、文学の何たるかを心得た人たちの間で、合図が交わされ、阿吽の呼吸で分かり合っている。(……)ある種の作家や作家志望は、文学とはいかなるものなのか肌で知っていて、たとえ「反文学」の立場をとっている場合でも、文学の次元にとどまっているということがすぐにわかる。(p.224)
なるほど、確かに「文学」は曖昧語の1つだ。納得のいく定義付けができないくせに、なぜかみな本質だけは知っている。
読者に影響を及ぼす作品について。
トルストイやドストエフスキーを読めば、かならず行動に影響が出ます。そうした影響がより顕著になるのは、読者に何かを押しつけようとはしない作品、トルストイやドストエフスキーの作品もそうですが、プロパガンダや教化のような意図をもたない作品においてなのです。政治参加とは無縁であるにもかかわらず、間違いなく大きな影響を及ぼし、著者が思いもしなかった結果をもたらした作品もあります。(p.228-9)
これも言語絡みの話題。専門家は言語だけを考えて、行動という概念を忘れているとか。これって日本語で言えば「言霊」なのかな。言語には力が宿っているから、よく考えて使わなければならないみたいな。
小説の技法や構成の変遷について。
文学作品は構造と形式を備えていなければならない、というのが私の以前からの考えです。そして、最初の小説『はまむぎ』では、そうした構造が極めて厳密で多層的なものとなるように配慮し、ひとつだけではなく複数の構造が備わるよう工夫しました。その時分、私はちょっと算術狂のようなところがあったので、数字の組み合わせに基づいて構成を組み立てました。多少とも恣意的に選んだ数字や個人的な好みで思いついた数字を組み合わせたのです。さらに原則として、このような構成自体は目立たないようにしました。自分用の指針みたいなものだったわけですから、読者にすぐ気づかれるようではいけなかったのです。もっとも、当時は誰も気づきませんでしたが。(p.233)
私の初期の本を特徴づけているのは秩序への配慮です。その秩序は、数学的方法によるものとは言いませんが、算術狂的なものではあります。そして、構造への配慮もまた特徴のひとつです……ゲームの側面もありますね。ルールを作って従うという意味ではゲームとも言える。(p.239)
これは『はまむぎ』【Amazon】ほか初期作品を読むときのメモということで。そのうち読むよ。きっと読むよ。たぶん読むよ。
西洋のあらゆる虚構作品は、『イリアス』【Amazon】か『オデュッセイア』【Amazon】に分類されるという。
まず、この二作品に共通していることがひとつあって、それは作中にほぼあらゆる小説の技法が認められるということです。その後に見いだされた技法がたくさんあるとは思えません。
『イリアス』はすでに非常に凝った作品であり、きわめて限定された主題をもっています。ご存じのように、アキレウスの怒りについての物語なのですから、ごく個人的なものが歴史と神話の壮大な背景の中に置かれていると言えます。ささいな諍いが、それを取り巻く歴史的世界を照らし出すようなこともあれば、逆に歴史的世界が諍いに光を当てることもある。しかし、とにかく物語をなすのは諍いのほうであって、その他は物語の<サスペンス>や展開に寄与するに過ぎません。
(……)
一方、『オデュッセイア』がはるかに個人的な物語であることは明らかです。これは一個人がさまざまな経験を重ね、自我を確立したり、自分の個性を確認して取り戻したりする話です。オデュッセウス自身、波瀾万丈の旅を終え、自分自身を取り戻したうえ、「世の中を知った」わけですからね。(p.240-1)
具体的には、
とのことらしい。でもって、この枠組みは『ユリシーズ』【Amazon】の登場で変わったとか。
まあ、言われてみれば確かにそうかもしれない。私が西洋文学を好んで読むのは、上記の2大フォーマットに気持ちよさを感じるからだ。壮大がゆえに感情の振り幅が広く、充実した読書体験を得ることができる。結局、文学って19世紀頃がもっとも幸福だったのではなかろうか? この頃の小説(良くできた小説)ってどれも純粋に面白いし。もちろん、最近の小説(良くできた小説)も負けず劣らず面白いけれど、ただその面白さはどこかひねくれてるんだよね。
2008.11.18 (Tue)
▽J・M・G・ル・クレジオ『パワナ』(1992)

★★★★
Pawana / Jean-Marie Gustave Le Clezio
菅野昭正 訳 / 集英社 / 1995.5
ISBN 978-4087732191 【Amazon】
1856年。ナンタケット島の少年ジョンが、水夫としてスカモン船長の捕鯨船に乗り込む。一攫千金を狙う船長は、牝の鯨がお産のために集まり、老いた鯨が死ぬために帰ってくるという<伝説の楽園>を目指していた。
正味80ページほどの短編(残りの50ページは訳注と解説)。活字が大きいうえに余白も広く、ぱっと見た感じでは児童書のような印象がある。フランス文学って短編1つで本になるからすごいわ。
新しい世紀がはじまっているが、もはやなにひとつとして以前のようではなくなるだろう。世界はもう原初にはもどらないだろう。潟湖はもはや、かつて生命が生まれでることのできた場所ではなくなっている。それは死の湖、流れた血で重苦しく苦い湖になってしまった。(p.76-7)
古い生命が死を迎え、新しい生命が生まれでる。鯨が集まる潟湖は、生と死が交差する楽園であり、循環する自然の神秘、ひいては世界の美しさを象徴している。そこへスカモン船長率いる捕鯨船が乗り込み、鯨を殺しまくって辺りを血の海に変えてしまう。さらに3年後、世界中から捕鯨船が集まり、楽園は跡形もなく消えてしまう。殺戮の現場に立ち会ったジョンとスカモンは、半世紀後、老境という立場からそれぞれ思いを馳せる。
この小説は話がとてもシンプルで、自然を映す文章がべらぼうに美しい。そこには何か大きなもの(“神”と言ってもいいかもしれない)への畏敬が感じられる。世界が繋がった現在では、書物や伝承といった“記憶”のなかでしか、原初の楽園を見出すことができない。ジョンとスカモンはそれを目撃した貴重な生き残りであり、現実と伝説を繋ぐ細い糸だ。だから余命幾ばくもない彼らの存在に、歴史なり郷愁なりロマンなりを感じてしまう。