2009.2c / Pulp Literature

2009.2.22 (Sun)

狐『水曜日は狐の書評』(2004)

水曜日は狐の書評(112x160)

★★★★
ちくま文庫 / 2004.1
ISBN 978-4480039224 【Amazon

「日刊ゲンダイ」に連載された書評をまとめた本。期間は1999年5月から2003年7月まで。漫画・翻訳小説・国内小説・ノンフィクションなど、全202本を収録している。

書評は800字あれば十分だよなあ。本の紹介が目的なら、エッセンスと評価さえ示せばいい。だいたい世の中の書評は長すぎるんだよ。だらだらとあらすじを連ねたり、必要のない蘊蓄を交えたり、その多くが文字数かせぎの賜物。もっとてきぱきと、要領よく、スマートに書けないものかと思ってしまう。スパッと核心に切り込むのが職人技ってものだよね。書評の勘所は批評眼と語り口にあるのだから、余計な情報はどんどん削ぎ落とすべきだと思う。

狐の書評がすごいのは、前述の理想を満たしながらも、800字という制約をまったく感じさせないところだ。語るべき内容がきちんと整理されていて、文章に余裕がある。物事のプライオリティを弁えているんだな。そして、変に煽ったりしないところも良い。というのも、最近はギャーギャーわめき立てるバカが多くてうんざりなのだ。痴呆のひとつおぼえみたいに、お勧めです! オススメです! の連呼。お前は出版社の回し者か? 押しつけがましいったらありゃしない。書評というのは書き手の内部で完結している(ようなフリをする)のが、奥ゆかしくて好ましいのだ。気に入った本を勧めたくなる気持ちは分かるけど、できればそこをぐっと堪えて、1つの芸として成り立たせてほしい。書評も立派な作品なのだから。

その点、狐はぬかりないね。フィクションからノンフィクションまで、豊富な読書量で培われた批評眼。作品の本質を的確に炙り出す粋な語り口。この2つで勝負すれば、わざわざ「お勧め」しなくても、人は自然とその本に興味を抱く。たとえば、日本人にとっての太宰治を、「何だかひどくなつかしいような、少しばかり恥ずかしいような、あるいはヤケドの跡にさわるような」と表現するなんて鋭い。本書はこういう納得のいく記述がそこかしこに散らばっているから信頼できる。しかもそれでいて、自らの能力に傲らないし、無用なひけらかしもしない。まるで武士のようなストイックな書評に終始している。これはちょっと病みつきになるかも。

2009.2.24 (Tue)

マイケル・オンダーチェ『ディビザデロ通り』(2007)

ディビザデロ通り(110x160)

★★★
Divisadero / Michael Ondaatje
村松潔 訳 / 新潮クレスト・ブックス / 2009.1
ISBN 978-4105900731 【Amazon

カリフォルニアに住む姉妹と少年は、不幸によって結ばれた血の繋がらない家族だった。そんな彼らが禁断の愛によってバラバラになる。間もなくして、物語はジプシーと小説家の過去を探り……。

いやー、こういうのは判断に困るね。全体を表すはっきりした焦点がなくて、あらすじを説明するのが面倒だ。とりあえず、通常の一枚絵的な骨格を持った小説ではない。細い糸で繋がった各人の生き様を、並べたり絡ませたりして共鳴させるようなタイプである。脇役(?)の過去をずんずん掘り下げるということで、強いて言えばフォークナーの『八月の光』っぽいかもしれない。でも、感触はだいぶ違うんだな。構造的には連作短編に近いものがあるけれど、これも的を射た言い方ではない。たとえるなら物語の即興演奏といったところで、構築的でありながらもいくぶんの気まぐれを匂わせている。

当初はジプシーと小説家をただの脇役だと思っていたので、彼らをフィーチャーしたときはびっくりした。さらに、メインと思われた3人がフェードアウトしていくのにも驚き。ハッピーエンドもバッドエンドも用意せず、ただ流れにまかせているような節がある。本作は掴み所のない全体像に拍子抜けしたけれど、個々のエピソードは波乱に富んでいて面白いし、奇抜な試みには創作意識が垣間見えて興味深いと思う。

>>Author - マイケル・オンダーチェ

>>新潮クレスト・ブックス

2009.2.27 (Fri)

エドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルジュラック』(1897)

シラノ・ド・ベルジュラック(112x160)

★★★★★
Cyrano de Bergerac / Edmond Rostand
渡辺守章 訳 / 光文社古典新訳文庫 / 2008.11
ISBN 978-4334751715 【Amazon

戯曲。ガスコン青年隊のシラノ・ド・ベルジュラックは、腕利きの武人であると同時に、有能な詩人でもあった。彼は従妹のロクサーヌに思いを寄せるも、醜い鼻に引け目を感じて告白できない。ロクサーヌは部隊きっての美男子クリスチャンに恋をしていた。

俺たちはな、ただ名前ばかりがシャボン玉のように膨らんだ、夢幻(ゆめまぼろし)の恋人に恋い焦がれている (p.172)

『オペラ座の怪人』を彷彿とさせるフリークスの恋愛劇。シラノは腕も立てば弁も立つ伊達男で、陽気に劇を盛り上げるトリックスターでもあるけれど、実は「恋愛弱者」という哀しみを背負っている。顔の一部が奇形だからまともな恋愛ができないのだ。たとえ人を好きになっても一歩下がって片思いするしかない。快活な言動の裏には、女性への激しいコンプレックスが隠れている。これが何ともせつないんだな。明るく振る舞えば振る舞うほど、その姿が健気に見えてしまう。

詩人として一流のシラノは、文才のないクリスチャンを助けるべく、ロクサーヌへの手紙を代筆することになる。ロクサーヌは手紙の才気にいたく感激し、ますますクリスチャンに傾倒していく。このねじれた関係もたまらない。シラノがいくら愛の言葉を紡いでも、それはクリスチャンのものと認識され、自身はますます蚊帳の外になっていく。一方、クリスチャンはクリスチャンで、ロクサーヌを熱狂させる手紙がシラノのものであるから、本当に自分が愛されているとは思えない。試しに自らの言葉で口説いてみるも、あまりに才気がなくて呆れられている。中身はあるのに容姿が不自由なシラノ。容姿は抜群なのに中身がないクリスチャン。どちらも同じくらい哀しい。

ただ、この戯曲はシラノが無類の快男児であるため、思ったほど湿り気はない。ユーモアとペーソスがほどよく混じっていて、最後まで気持ちよく読むことができる。何といっても、シラノの弾けっぷりが面白いのだ。これはぜひ舞台を鑑賞したい。

>>光文社古典新訳文庫