2009.5b / Pulp Literature

2009.5.13 (Wed)

辰濃和男『文章のみがき方』(2007)

文章のみがき方(99x160)

★★★★
岩波新書 / 2007.10
ISBN 978-4004310952 【Amazon

著者が様々な本から収拾した文章についての書き抜き。それらの引用をもとに、文章を書くための手立てを探っていく。基本から文章修業まで全38章。

著者は1930年生まれの元新聞記者。本書は『文章の書き方』【Amazon】の姉妹編で、技術論よりも精神論に重きを置いている。

感性を磨く・毎日書く・とにかく削るなど、多種多様な方策が載っているけれど、結局は序文にある「文は心なり」に尽きるのだろう。著者は文章の核心について次のように述べている。

(……)いい文章のいちばんの条件は、これをこそ伝えたいという書き手の心の、静かな炎のようなものだということです。大切なのは、書きたいこと、伝えたいことをはっきりと心でつかむことです。そのとき、静かな炎は、必要な言葉を次々にあなたに贈ってくれるでしょう。(p.ii)

まったくの正論で耳が痛い。今の自分に欠けているのがまさにこれなので。ブログというのは“記録”と“表出”のバランスで成り立っていると思うけど、最近の自分は前者を優先させていて、後者のための言葉はもっぱら紋切り型になっている。平たくいえば、“手を抜いている”ということ。本を読んでも特に言いたいこともなく、書く暇があったら読むほうに精を出したいとさえ思っている。確かに、気持ちの入った文章は下手でも読ませるからなあ。私もどうにかしてモチベーションを上げようと思う。

もうひとつ。

いい文章かどうかは、その人が字をたくさん知っているかどうかできまるのではない。「奇麗な言葉を陳列する」ことができるかどうかできまるのでもない。なにかを観察し、解釈するとき、その観察や解釈がより深いかどうかによってきまる。解釈が上品ならば自ら上品な文章ができる。おおざっぱにいえば、漱石はそう主張していました。(p.64)

「奇麗な言葉を陳列する」というのはナルシシズムの現れだろう。こんなに言葉を知っている僕はすごい! こんなに繊細な僕はすごい! みたいな。表面上は器用に日本語を操っているのに、行間から醜悪な自意識を滲ませているせいで、せっかくの文章を台無しにしてしまうタイプ。表記に妙な拘りがあって、やたらと読点を打ったり、不必要に漢字をひらいたり、小手先の雰囲気づくりに耽溺するタイプ。とにかく自分が好きで好きで仕方がなく、何を書いても安っぽい自己陶酔にしかならない。はてなダイアリーでよく見かけるタイプだ。

2009.5.20 (Wed)

フラナリー・オコナー『フラナリー・オコナー全短篇 下』(1956-)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉(115x160)

★★★★★
27 Short Stories / Flannery O'Connor
横山貞子 訳 / ちくま文庫 / 2009.4 / 全米図書賞
ISBN 978-4480425928 【Amazon

短編集。「すべて上昇するものは一点に集まる」、「グリーンリーフ」、「森の景色」、「長引く悪寒」、「家庭のやすらぎ」、「障害者優先」、「啓示」、「パーカーの背中」、「よみがえりの日」、「パートリッジ祭」、「なにゆえ国々は騒ぎ立つ」の11編。

『フラナリー・オコナー全短篇 上』の続き。後期の短編を収めている。

短編集『すべて上昇するものは一点に集まる』(1965)

「すべて上昇するものは一点に集まる」(1961)"Everything That Rises Must Converge"

没落した旧家出身の母は、貧しいながらも自分の家柄を誇りに思っていた。一方、息子はそんな母を疎ましく思っている。バスに乗る2人。息子はわざと黒人の隣りに座り、母の神経を逆撫でするのだった。

何かこう、いたたまれない。2人は旧世代と新世代の対立みたいになっている。時代遅れの母は偏見から逃れられないし、大卒の息子は母の間違いを思い知らせてやりたい。田舎育ちだったら身につまされるようなシチュエーションだけど、本作の場合、名門意識と人種問題が関わっているから余計こじれている。

そういえば、『アメリカ文学のレッスン』にこんな一節があった。

母と息子の物語は、母の干渉・過保護に息子が反逆する話か、諦念とともにそれを容認する話である。(p.136)

本作もまったくその通りで、対立の根本は2人が健全な関係を結べていないところにある。こういうのってたぶん、お国柄なのだろう。オコナーが描く典型的な人物は、往々にして他者との距離が掴めず、おせっかいを焼いては無用なトラブルを招いている。本や映画の知識だけで言うのも何だけど、アメリカ南部には良いイメージがまったくない。厚い雲に覆われた不毛の地を想像してしまう。O・ヘンリー賞。★★★★。

「グリーンリーフ」(1956)"Greenleaf"

農場主のミセス・メイは、雇い人のミスタ・グリーンリーフを持て余していた。あるとき、彼女の敷地に余所の牛が迷い込んでくる。その牛はグリーンリーフの息子のものだった。怒ったミセスは、牛を連れて帰るようグリーンリーフに詰め寄る。

森と空との境界線は、世界にぱっくりあいた暗い傷口のようだった。ミセス・メイ自身の表情もかわっていた。いままで見えなかった人が急に視覚を取り戻したものの、まぶしさに耐えられないでいる。そういう顔だった。(p.75)

オコナーは短い作家人生を通して、執拗に“啓示”の瞬間を描いている。これもクリスチャンのサガなのだろうか。門外漢からするとちょっと不気味だ。O・ヘンリー賞。★★★★。

「森の景色」(1957)"A View of the Woods"

孫娘を可愛がる老人。彼は自分の土地に娘一家を住まわせていた。孫娘以外の一家を嫌っている老人は、彼らを挑発するように自分の土地を切り売りしていく。

くだらないプライドのせいで孤立している老人が、権力を行使することで憂さ晴らししている。彼は周囲と妥協できない老害といったところ。空気を読まずに人の大切なものを踏みにじっている。

老人の滑稽さを笑い飛ばすことができないのは、多かれ少なかれ我々にも当てはまる部分があるからだ。彼の我が侭はやり場のない無力感の発露なわけで、盲目な痛さが身に染みる。★★★★。

「長引く悪寒」(1958)"The Enduring Chill"

病気の息子が田舎で保養する。彼は才能のないエセ芸術家だった。

ビョーキの息子はまるで悲劇のヒーロー気取り。自分の「死」に意味づけをしようとするのだけど、その目論見は叶わない。母・黒人・医師・神父、それぞれとすれ違う。そして、頼みの健康でさえ思い通りにはいかず、事態はそうとうマヌケになっている。ラストで“啓示”がくるのは大袈裟だと思うけど、アメリカ南部だったら全然ありなのだろう。やはり、あの土地はナチュラルに狂っている。★★★★。

「家庭のやすらぎ」(1960)"The Comforts of Home"

母が留置所からあばずれ娘を引き取ってくる。彼女はボランティアのつもりだった。息子のトマスは強く反発する。

女を殺して“男”になるというやや図式的な話。例によって母との関係は歪んでいて、トマスは行動を起こすべく亡き父を“憑依”させている。アメリカ南部は善意の押しつけの宝庫であり、軟弱なマザコンの産地なのだ。こんな場所で育ったら気が狂うのも無理はないと思う。★★★★。

「障害者優先」(1962)"The Lame Shall Enter First"

少年院で無償のカウンセラーをしているシェパードが、天涯孤独な不良少年を引き取ってくる。シェパードは出来の悪い実の息子を蔑ろにし、知能の高い不良少年に愛情を注ぐのだった。

「あいつ、自分のことをイエス・キリストだと思ってやがる!」(p.218)

「家庭のやすらぎ」のバリエーションといったところ。どちらの短編も出てくるのは片親で、不在の親が重要な役割を果たしている。

この著者の短編は、不自然なオチで完成度を下げている場合が多いけれど、本作は最後の最後まで完璧だった。★★★★★。

「啓示」(1964)"Revelation"

自分のことを善良な人間だと思っているミセスが、医院の待合室で手痛い目に遭う。

しばらくして飼育場から降りると、水道の蛇口をしめて、暗くなった道をゆっくりと家に向かった。まわりの森の中からはこおろぎの声が湧きあがっていた。その虫の音は、彼女の耳にとって、神を讃えるハレルヤの声にきこえた。星の輝く天をさして登ってゆく魂が歌う声だった。(p.299)

我々だったら“教訓”や“運命”で済ますところを、クリスチャンは“啓示”にまで仕立ててしまう。小説の舞台は本当に20世紀なのだろうか。「文化の違い」ではとうてい表せない、根元的な断絶を感じる。O・ヘンリー賞。★★★★。

「パーカーの背中」(1965)"Parker's Back"

敬虔な妻をもつパーカーは、体の前面が入れ墨に覆われていた。彼は空いている背中にイエス・キリストを彫ってもらう。

この夫婦のすれ違いはどうしようもないね。キリスト教は南部に染みついた“呪い”みたいなものだし。科学が発展しても連綿と教義は受け継がれ、刃物のような狂信者は後を絶たない。アメリカのバイブル・ベルトに比べたら、日本の田舎なんぞはパラダイスである。★★★★★。

「よみがえりの日」(1965)"Judgement Day"

ニューヨークの娘のもとに引き取られた老人。余命幾ばくもない彼は、自分の遺体を南部に送るよう希望する。ところが、娘はニューヨークで埋葬を済ませるつもりだった。

黒人と白人、クリスチャンと非クリスチャン、親と子供、南部と北部。こうして短編集を通読してみると、アメリカは対立軸が多いなあと思う。昔を生きる頑固な年寄りは、ただ時代の流れに取り残されるのみだ。★★★★。

後期作品

「パートリッジ祭」(1961)"The Partridge Festival"

祭りで侮辱を受けた男が、市の名士5人を殺害、精神病院に収容された。作家志望の男女が彼と面会しようとする。2人は殺人犯に共感を抱いていた。

シングルトンに会えば、必ず自分は変化するだろう。この訪問をなしとげれば、これまでまったく考えもつかなかった不思議な落ち着きを獲得するだろう。すわったまま目を閉じて、十分ほどじっとしていた。啓示が近づいている。それに対して心の準備をしようとしていた。(p.404)

勝手に想像を膨らませて、勝手に思想を投影して、勝手に啓示を期待する。これだから頭でっかちは始末に負えない。★★★★★。

「なにゆえ国々は騒ぎ立つ」(1963)"Why Do the Heathen Rage?"

母は息子に農園を継がせたがっていた。

「ワルター、あんたは男でしょ。私はただの女なのよ。」
「母さんの世代の女はね、おれの世代の男より、ずっとましなんだ。」(p.416)

キリストの持ち出し方が鮮やかだ。母と息子の断絶を軸にしながら、ラストで必殺の一撃を繰り出している。私はノックアウトされたよ。★★★★。