2010.3b / Pulp Literature

2010.3.11 (Thu)

M・R・ニモットモンコン・ナワラット『幻想の国』(1939,46)

★★★
吉岡みね子 訳 / 大同生命国際文化基金 / 2009.9
ISBN なし (非売品)

立憲革命後のタイ。インテリのルン・チットカセームは政治犯として逮捕され、4年の服役後、恩赦によって釈放された。彼の婚約者は既に別の男に乗り換えており、今は肺病に罹って死にかけている。理想主義者のルンは公務員への誘いを断って商人の道を志すが……。

軍人だった著者は、1933年、反乱のとばっちりで禁固刑に処せられ服役。38年に出所するも、今度は国家転覆計画の容疑で再逮捕され、終身刑を受けている。政変によって44年に釈放。48年に死去した(享年40歳)。本作は獄中で書いた原稿がベースになっている。

内容は昔ながらの思想小説といったところ。インテリのルンは理想主義者であり、権力者が庶民を蹂躙する支配体制に強く憤っている。公務員が嫌だから商人の道に入ったものの、そこもまた弱者を踏みにじる苛酷な環境だった。彼は利益追求の経済主義について論考し、ついには職を離れてニートになる。さらに、プライベートでは恋人の過度な現実主義を鋭く批判、人間の価値は内面にあるということを論理立てて説明し、ついには袂を分かつことになる。頭でっかちのルンは常に「正論」を実践しているため、当然ながら生活は苦しい。条件の良い公務員の職を蹴ったり、友人のためにわざと貧乏くじを引いたり、人生においてしばしば不利な選択をしている。

ルンは読者に別れを告げて死へと向かう。祈りはただ一つ、どうかタイがすみやかに暗黒時代から解き放たれますように。(p.246)

要するに、社会人が身につけて然るべき「ずるさ」がないのだ、この男には。自分の信条に忠実で融通がきかない。書生のまま世の中に出てきている。本作の読みどころは、そんな彼の愚直な「正論」にあると言えよう。問答無用で罪に落とされる時代だからこそ、論理の向こうにある幻想の国を希求する。西洋の知識を織り交ぜた思索の数々は、その不器用な生き方と相俟って、どうにもならない切実さを孕んでいる。最近は技巧だけの薄っぺらい小説に飽き飽きしていたので、こういう旧来的な小説も悪くないと思った。

>>アジアの現代文芸

2010.3.17 (Wed)

トニ・モリスン『マーシイ』(2008)

マーシイ(112x160)

★★★★
A Mercy / Toni Morrison
大社淑子 訳 / 早川書房 / 2010.1
ISBN 978-4152090997 【Amazon

17世紀末のアメリカ。奴隷娘のフロレンスが、借金のかたで北部の地主に引き取られる。その地主は寛容だったが、天然痘に罹って間もなく死去、残されたマダムも病気になり、使用人たちへの態度が厳しくなる。そんななか、フロレンスは自由黒人の鍛冶屋に恋をするのだった。

歳をとっても衰えないのが大江健三郎とトニ・モリスンで、両者とも昔のような濃厚な小説よりも、今くらい緩いほうがちょうどいい。本作は章ごとに視点人物を変え、それぞれ時系列を前後させて物語を立体化している。錯綜した語りはさほど重くなく、登場人物の掘り下げも行き過ぎていない。構造への意識がだいぶ洗練されていて、これはこれで熟練の筆致が味わえる。短いながらも深読み(文学部的読み方)を誘発する、主流文学の教科書みたいな小説だった。

ベテランだけあってメタファーの使い方が小慣れている。奴隷なのに足の裏が柔らかいフロレンスは、特別に主人のブーツをあてがわれていたのだけど、あることがきっかけで裸足になり、最後は足の裏が堅くなる。このモチーフがフロレンスの内面と重ね合わされていて、螺旋状の複雑な語りに一本筋を通している。さらに、ネイティヴアメリカンの迷信がマジックリアリズムへの可能性を開いているところにも注目すべきだろう。奴隷制が確立する前の、歴史の薄明かりのような時代。白人の農奴がネイティヴアメリカンの奴隷と共生し、その近くで自由黒人が生計を立てている。天然痘が悪魔的な猛威を振るい、地主の命やマダムのやさしさといった人間の良心を奪っている。地主もマダムも旧世界の捨て子のような存在で、生まれてくる子供たちはまるで呪いにかかったように次々と死んでいた。最後は幽霊になって帰ってくる地主……。虚実の間にある、黎明期のアメリカが見事に描かれている。

2010.3.20 (Sat)

筒井康隆『アホの壁』(2010)

アホの壁(99x160)

★★
新潮新書 / 2010.2
ISBN 978-4106103506 【Amazon

良識とアホの間に立ちはだかる壁。それを飛び越えていくアホたちを類型化し、フロイトを中心とした俗流心理学で斬っていく。

これは一般的な意味でのノンフィクションではなく、新書のふりをした漫談集みたいなものだろう。フロイトを使っていかに偏見や無理筋を通せるかという様式美を競っているのだ。ただ、そうは言っても所詮は俗流心理学である。ところどころ論理が粗く、手持ちのネタに少し色をつけたようなやっつけ仕事になっている。レーベルに見合ったクオリティの低い本だった。

やたらに人に喧嘩を吹っかけてくるようなアホは、当然のことながら孤独であることが多い。つまりこういう人種は喧嘩している状態が唯一、他人とのコミュニケーションの場なのである。喧嘩することによって孤独を忘れることができるのだ。(p.107)

なるほど、2ちゃんねるでコテハンを名乗るようなタイプだな。自分で人を集めるほどの才能もなく、そのくせ自己顕示欲だけは人一倍強い。ルサンチマンから他人を攻撃し、論理で勝てないとなったら無意味なコピペを連発して全能感に浸ろうとする。こういう輩が決まって使う言葉が「論破」だ。ただの言いがかりを議論と勘違いし、相手が沈黙したら一方的に勝利を宣言する。どうやら自分のことをいっぱしの論客だと思っているようだけど、しかしそれは大きな間違いというもので、単に面倒だから相手にされていないだけである。この手のビョーキ野郎はたいてい批判のための批判しかしない。確固たる思想を持っておらず、ただ自己愛を満たすために、あるいは現実で認められていないことからくる鬱憤を晴らすために、見ず知らずの他人に粘着している。自分に甘く他人に厳しい。他人の足を引っ張ることでしか自分の価値を示せない。己の醜い根性を卑屈になりながらも正当化するところは、ドストエフスキーの小説に出てくるだめんずのようである。