2010.6a / Pulp Literature

2010.6.3 (Thu)

高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(1995)

本が好き、悪口言うのはもっと好き(110x160)

★★★★
文春文庫 / 1998.3
ISBN 978-4167598013 【Amazon

エッセイ集。言葉をめぐる細かいエッセイのほか、「支那」が差別語でないことを論じたり、高校生向けに李白と杜甫を解説したりしている。

内容もさることながら文章が素晴らしい。さりげない表現にも体系的な拘りがあって、古文・漢文への深い教養が見て取れる。同じ中国畑でも井波律子は軽薄で鼻につくのに、著者の場合は言葉への細心さが目立つのだから不思議だ。他人にツッコミを入れるだけであって、自分の書きぶりにも注意を払っている。NHKはこの人を「言葉おじさん」に起用すべきだった。

以下、まとまりのないメモ。

「新聞醜悪録」より。

人はよく気軽に中国文化の恩恵などと言うが、わたしは必ずしも、日本が中国の隣に位置したのが幸せだったとは思わない。日本文化は中国文化より誕生がおそいのだから、同時期の中国にくらべて言語が幼かったのはやむを得ない。もし中国の言語・文字の侵入を受けなければ、日本語は健全に成熟して、いずれみずからの性質に最も適当した表記体系を生み出すにいたったであろう。それが、まったく性格の異る言語およびその表記手段の侵入によって発育を阻止され、音が言葉の実体、という言語の本質をなかば喪失したのである。

日本語は漢文へのアクセスが容易なので、個人的にはかなりの恩恵を受けている。でも、著者がこういう考えなのは意外だ。言語への問題意識が高いと音韻が気になるのだろうか。

「書評十番勝負」より。

ところで書評は、ある程度の分量が要る。何をどう書いてある本かという内容紹介はもちろん必要だし、そのどこがどうすぐれているのかも書かないといけない。内容紹介と評価だけでは無味乾燥だから、アトラクション的部分もほしい。書き出しの一行は工夫しないといけないし、おしまいもきれいに決めたい──なんてやっていると、たちまち所定の枚数をオーバーしてしまう。あわてて切り縮めると、羽根をむしったニワトリみたいな変なものができあがる。書評は短いほど力量が必要だ。

私は無味乾燥な書評が好きで、あらすじ紹介やアトラクションはいらないと思っている。それらは原稿を埋めるための夾雑物にすぎない。さして重要でないあらすじを延々と並べられても退屈なだけで、はよ本題に入れよと思う。でも、巷ではその手の書評が「正統」と目されているから、好みの書評家を見つけるのが大変だ。昔はあるウェブサイトを参考にしていたけれど、7年前に更新が途絶えてからは代わりがいなくて困っている。探しているのはただの文系バカではない。哲学からサイエンスまで幅広く読むタイプだ。多読は当然として、スノッブでなければなおよろしい。松岡正剛や立花隆はリテラシーが低いからだめ(知識は豊富でも知恵が足りない)。アルファブロガーは煽り文句が過剰だから問題外(あれは書評ではなく宣伝文だ)。確かな見識を備え、中立の立場から淡々と評価を下すのが理想である。こんな私にお勧めの書評家いないでしょうか?

「『支那』はわるいことばだろうか」より。

わたくしは戦後、新劇『女の一生』の舞台で、杉村春子の扮する女主人公が、明治大正の古めかしい装置のなかで「中国」「中国」を連発するのを見て、一種異様な圧迫感を感じたのをおぼえている。それはまさしくジョージ・オーウェル的世界で、何かファナティックな勢力が、丸いまげを結って地味な和服を着た女の口をかりて、「誰も『支那』などと言ったことはない。正しい日本人は昔から『中国』と言ってきたのだ」と叫び立てていた。思えばあの『女の一生』あたりが、日本人の「過去改変」のはしりだったのだろう。

サヨクって昔からこんな感じだったみたい。バカだね。

2010.6.7 (Mon)

ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』(1998)

野性の探偵たち(109x160)

★★★
Los detectives salvajes / Roberto Bolano
柳原孝敦 松本健二 訳 / 白水社 / 2010.4
ISBN 978-4560090084 【Amazon
ISBN 978-4560090091 【Amazon

1975年のメキシコ市。17歳の少年が若者による前衛詩グループ「はらわたリアリズム」に参加する。主催者はアルトゥール・ベラーノとウリセス・リマの2人で、それぞれ謎めいた人物だった。彼らは半世紀前に活動していたある女性詩人を求めて、北のソノラ砂漠へ向かう。

文学の中で最悪のことってのは何か知ってるかい?(……)作家たちと仲良くなってしまうことだよ。友情ってのは宝ではあるが、批評眼をだめにしてしまう。(vol.2 p.41-2)

多彩な「語り」で編み上げられた詩人小説。まずは砂漠に行くまでの経緯が少年の日記で語られ、その後は総勢50名に及ぶ膨大なインタビューが続いていく。砂漠で何をしたのか? というのはひとまず空白のまま。旅から帰ってきたベラーノとリマは、今度はヨーロッパやアフリカを巡り、現地の詩人クラスタと交わっていく。といっても、この辺の事情は断片的に伝えられるだけだ。2人は常に語られる存在として、群像たちの証言に出てくるのみである。その謎めいた姿はまるで蜃気楼のよう。何を目的に放浪しているのか分からないし、物語がどこを目指しているのかも見当がつかない。確かなのは、詩への情熱を貫いていることだけである。分量は2冊合わせて850ページほどだけど、様々な「語り」がぎっしり詰まっているせいか、ページ数以上にボリュームがあったように思う。読み終わるのに3週間もかかってしまった。

>>エクス・リブリス

2010.6.10 (Thu)

P・G・ウッドハウス『がんばれ、ジーヴス』(1963)

がんばれ、ジーヴス(109x160)

★★★★
Stiff Upper Lip, Jeeves / Pelham Grenville Wodehouse
森村たまき 訳 / 国書刊行会 / 2010.5
ISBN 978-4336052162 【Amazon

銀のウシ型クリーマーをめぐる厄介な状況を脱し、無事トトレイ・タワーズから帰還したバーティー。しかし、ガッシーとマデラインの仲がまたもや壊れようとしていた。バーティーはジーヴスを連れてトトレイ・タワーズに乗り込む。

『ジーヴスの帰還』に続くウッドハウス・コレクションの第11弾。表題作のほか短編を3編収録している。

『ウースター家の掟』の後日談ということで、お馴染みのメンバーがお馴染みのドタバタを繰り広げている。すなわち、男女関係のもつれに翻弄され、ブツをめぐって右往左往するという次第だ。プロットは往年よりやや甘いくらいで特に言うことはないのだけど、比喩表現はいつも以上に振るっていたかもしれない。「カバの大群が川辺の葦の間を通り過ぎるような凄まじい大音響」(p.166)とか、「酸化アセチレンの導管みたいに僕をぎらぎらねめつけて」(p.197)とか、独特の言語センスが炸裂している。この発想はどこから沸いてくるのだろう? ニヤニヤと笑いつつその能力に感嘆したのだった。

以下、短編について。

「灼熱の炉の中を通り過ぎてきた男たち」(1963)"Tried in the Furnace"

ドローンズ・クラブ。漫才の名手バーミー&ポンゴは、お互い魂の試練をくぐり抜けてきたという。その顛末をクランペット氏が語る。

要するに、2人が同じ女の子に惚れて酷い目に遭うというわけ。奥様方の弾けっぷりがすごかった。バスのなかで下品なワイ歌を歌ったり、通りすがりの自転車乗りにトマトを命中させたり、モンスターマザーと言えるくらいに悪質で笑える。それと、子供たちも相変わらず鬱陶しい存在だ。かわいげなど微塵もなく、悪魔的な所業でターゲットに地獄を味わわせている。紳士にとって「女子供」は鬼門のようだ。★★★。

「驚くべき帽子の謎」(1963)"Amazing Hat Mystery"

チビとノッポの2人が、それぞれサイズ違いの帽子を被ることになったという。注文した店は由緒正しい帽子屋で、サイズ違いはあり得ないことだった。その顛末をクランペット氏が語る。

「四次元空間」級のオチが微笑ましい。謎そのものは至ってシンプルで、事件の構図は絶対的に明白なのだけど、そこをユーモラスに捻っている。★★★。

「アルジーにおまかせ」(1959)"A Few Quick Ones"

妻子とともにリゾート地(ブラムレイ・オン・シー)に逗留しているビンゴ。彼は質屋からブツを請け出すのに5ポンドを必要としていた。地元ではちょうど赤ん坊コンテストが行われようとしており……。

比喩がえらい冴えていた。ビンゴの息子は世の赤ん坊たちと同様奇怪な顔面を有しているようで、「足の巻き爪に苦しむ大量殺人者の顔つき」(p.339)と形容されている。しかもこれは父親が認めていることだ。その特異な容貌は他人から見ても特異らしく、彼は初対面の漫画家から次のように感心されている。

常に新怪物が必要なのですが、あなたのお子さんを見た瞬間に、私は見つけたと思った。あの不機嫌な顔つき! 人食いザメに移植したって何の問題もなさそうなあの険悪な目。天与の才能です。(p.357)

おいおい、すごい言われようだなあ。私は真っ先に朝青龍を思い浮かべたよ。彼に似た赤ん坊ってけっこう多いから……。★★★★。

>>Author - P・G・ウッドハウス